「南京事件」前後の人口推移 まとめ


1937年から1938年にかけての南京の人口推移をまとめてみた。

■1937年7月以前
→約100万人

■11月頃
→約50万人
*9月頃から日本軍侵攻の噂を聞いた市民が脱出をはじめる。

【典拠資料】

●南京市政府書簡(南京事件P220 笠原十九司)
「調査によれば本市(南京城区)の現在(11月23日)の人口は約50余万である。
将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である」

●米大使館報告 (アメリカ資料編P90)
11月27日、在留外国人に対して「避難勧告」が出された。
「市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと」

●『南京の真実』(ジョン・ラーベ)
察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二〇万人住んでいると繰り返した(11月28日付けの日記)

■12月(陥落前)
→約20万人
【典拠資料】

●南京安全区国際委員会の報告
→20万人(安全区内の人口)

*食糧配給の試算が目的であり、厳密性が要求されることから信頼できる数字であると思われる。また当時安全区に居た民間人に加え、区外の民間人も安全区に避難してくることも勘定に入れていたとされ、そのことからも数字は多すぎることはあっても少なすぎることはないと推測される。

*当時、安全区外に住民はほとんどいなかった。いたという説もあるが、仮にいたとしても少数であったと思われる。また南京防衛にあたった中国軍も、安全区以外にいる一般市民は、「漢奸(日本側のスパイ)」とみなすとの布令を発していることなどから安全区域外に多数の人が残っていた可能性はひくいとみられる。

*安全区委員会側も12月17日の文書で「13日に貴軍(日本軍)が入場した時にわれわれは安全区内に一般市民のほとんど全体を集めました」と記している。

●『南京の真実』(ジョン・ラーベ)
「(中国軍・黄上校との対話)なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首に縄を付けても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?」(12月6日付けの日記)

「日本政府と蒋介石はなんといってくるだろう。一同、固唾をのんで待っている。何しろ、この街の運命と二十万の人の命がかかっているのだ」(12月10日付けの日記)

●南京アメリカ大使館通信
「南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。人口のおよそ五分の四が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった」(12月10日以降の報告)

●東京裁判速記録
東京裁判でロヴィン弁護士が「南京ニ於おいテ殺害サレタ数ハ30万トナッテ居おリマスガ、私ノ承知シテ居(い)ル範囲ニ於キマシテハ南京ノ人口ハ20万デアリマス」と質問をしたところ、ウエッブ裁判長は「今ハソレヲ持チ出ス時デハアリマセン」とあわてて発言を封じてしまった。(「極東国際軍事裁判速記録」58号21・8・29)。

■1937年1月(注:「虐殺」が終わった後である)
→約25万人

【典拠資料】
●安全区委員会の調査
→25万人
(食糧給付のため日本軍が安全区委員会を通して調査したものらしい)

*人数の差異があれば餓死者や暴動などが発生していたはず。したがって数字はかなり正確であると思われる。

*なおこの時期、良民証(戦闘員でないことを示す日本軍発行の証明書)の給付数は16万とされる。ちなみに以下のように25万という説もあり、しかもこの数字には高齢の女性と12歳以下の子供は含まれない。もしこれが正しいのであれば、この時点で30万人以上の中国人が南京市内にいたと推定される。

●『十五年戦争極秘資料集 第十三集 華中宣撫工作資料』
井上久士著 不二出版 1989 P153

「南京特務機関 南京班第二回報告(二月中状況)」

3.治安 (1)敗殘兵及抗日分子の摘出

治安確立の先決問題は城内外に於ける敗殘兵及抗日分子の捜査摘出にして
昨年12年22日以降、本年1月5日に至るの間に於て
中島兵團の施行せる査問に協力し
約4千名の敗殘兵竝抗日分子を摘出し、
1月6日より2月25日に至る間、更に特務機關に於て
天谷警備支隊の協力を得て城内外に渉る査問を續行し約5百を摘出せり。

此の結果良民として(老婆及12歳以下の小兒を除く)
安居之證を交付せる者左の如し(概數)

中島兵團…15万人
特務機関…10万人

計…………25万人

難民の城門の通行に關しては嚴重に之を制限しありしも
情勢の推移に鑑み漸次之を緩和し2月25日以降無制限通行を許可したり。

●『南京安全地帯の記録』完訳と研究 冨澤繁信著 展転社

『南京安全地帯の記録』 第41号 福田氏への手紙

1938年1月14日、ジョン・H・D・ラーベ委員長

・・・我々は貴軍が、10歳以下の子供、及びいくつかの地区では
老人の女性を含めないで、16万人を登録したと理解しております。
すると、当市の人口は多分25万人から30万人ということになります。
この住民を通常の米の配給で養うには・・・

『南京安全地帯の記録』 第54号 プリドウブリューン氏への手紙

1938年1月28日、ジョン・H・D・ラーベ委員長

・・・南京25万の難民のうち、
大部分は市内及び近郊の大規模な火災のために家がありません。・・・

■1937年3月下旬
→25万〜28万人

【典拠資料】

●スマイス調査(25万〜27万と推定)
(『日中戦争史資料集 9』 南京事件Ⅱ 英文関係資料編 P219)
●南京維新政府南京市政公署での住民登録数(27万7千人)

■1938年9月
→40~50万人
【典拠資料】

●『文藝春秋』P193 第十六巻 第十九號
昭和十三年十一月特別號 (1938年)
従軍通信/上海より廬州まで/瀧井孝作

九月二十三日。晴。南京にて。

午前九時、特務機関に行く。大西大佐より南京施政状況の説明あり。
人口は戦前は百萬そのうち二十五萬漢口に行き、二十五萬は上海に在り、
五萬は香港に行き、現在は四五十萬どまりなり。

*漢口へは政府関係者が、上海へは市民が逃げて行ったようです。


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