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作者の意図を越えてゆけ

「作者の考えに最も近いものを選びなさい」
これは現代文のテストで幾度となく出会ったフレーズ。作者の書いたものは目の前にあるが、作者の考えは基本的に頭の外へは出ていかない。他人の思考の中身を覗くなんてことは現在の科学じゃ不可能とされている行為だ(し、もし何らかの超能力で覗けたとしても法的に「不当なシナプス通信傍受」にあたるのではないかと思われる)。書いたものと書かれたものの間には三途の川と同じくらい幅のある深い溝が横たわっていて、読み解く者はせいぜい川べりから対岸をオペラグラスで覗き込む程度のことしかできない。遠くに見える黒い固まりが猫なのかゴミ袋なのか、近くまで寄って触って確かめることは絶対にできない。

以上を踏まえて、平泳ぎ本店「SAKURA no SONO ~平泳ぎ本店Special Edition」の話をしよう。
「SAKURA no SONO」はチェーホフの「桜の園」を下敷きに書かれた。こういう場合、原作とか潤色とか翻案とか、いろいろな言い方があるけれども、「桜の園」と「SAKURA no SONO」の関係は少しばかり複雑だったりする。まあ「原作」などとでも言おうものなら、チェーホフが存命だったら怒ってくるだろうし、故人だとしても墓から起き上がってきた勢いのままラリアットの一つでも食らわされたって文句は言えなかろうという類のものである。表面上は。
このバチ当たりなほどダイナミックな換骨奪胎喜劇を書いたのはPAPALUWAの鈴木美波さんという人で、そこまでは別にいい。いや、いいというか、別にそんな珍しいことでもない。話の主眼はここから先にある。

平泳ぎ本店はカンパニーとして固有の劇作家をもたない。ちょっと前までは固有の演出家も立てていなかった。劇団メンバーは全員が俳優で、屈強な俳優8人が自分たちの肌感覚を頼りに演じてみては、試行し、錯誤し、意見を交換し、時には意見をぶつけ合い、遠投し、暴投し、デッドボールで進塁し、乱闘し、互いにイニシアチブを奪い合いながら岩を削り出すように作品をつくっていた、そんな集団だ。
「桜の園」を通じてチェーホフが描こうとしたものと、「SAKURA no SONO」で描かれようとしているものは違う。国や時代の違いもあるが、それ以上に「人」が違う。鈴木美波さんは川の向こうにある桜の園をオペラグラスで覗き、見えた風景を手掛かりにして桜の園の絵を描いた。そして脱稿した「SAKURA no SONO」という一枚絵の解釈は演出の松本一歩に委ねられた。だとすれば当然「SAKURA no SONO」と「SAKURA no SONO ~平泳ぎ本店Special Edition」も、白熱しすぎた伝言ゲームのように違う側面をあらわにする。そして客席にいる一人一人が受け取るものも違う。違うはずだと思っている。

チェーホフの考える「喜劇」とは別のところに、真新しい「喜劇」を構築すること。今回の平泳ぎ本店の考えに最も近いものを選ぶとしたら、これが僕の回答になる。それが正解であるかはわからないし、正解があるとも思っていない。けれども昨日のリハーサルを終えて、自分の目にうつった景色は確かに「新・喜劇」だった。そしてそれは新しいと同時に、演劇によく似ていた。具体的にどれというわけでもない、いつか見た、いま演劇を選んでいる僕たちがかつてその契機として熱狂した、最大公約数または最小公倍数としての(または夢まぼろしとしての)「あの演劇」に。既存のどれにも似ていない演劇ばかりが持て囃されがちな中にあって、どの演劇にも少しずつ似ているというのは凄いことだと思う。パロディでもオマージュでもパスティーシュでもなく、少なくとも六親等以上離れた「先祖の血」的な似かたは、好きな劇団、とか好きな作品、とかいう単位ではなく「演劇」という巨大な主語をまるごと溺愛してしまった平泳ぎ本店にこそふさわしい。

深く考えず、頭をからっぽにして笑える。そんな使い古されたフレーズはあまり使いたくないが、しかし、舞台上から皆様方の頭の中へ詰め込みたいものは大量にあるので、なるべくたくさん入るよう頭の容量は少なめにして来てほしい。基本的にはスペインの奇祭でも眺めるように見ていただけたら、この饗宴が終わるころには不思議と柔らかくあたたかな気持ちになれるんじゃないかと、そう信じて初日の幕開けに臨む所存ではある。

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