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青春下車前途有望

青春18きっぷの存在を初めて知ったとき、僕はすでに18歳ではなかった。よくある誤解にまんまと嵌まり、もう自分には使えないから関係ないやと名前以上のことを一度も調べないまま何年も過ごした。

おや、と思ったのは25か26歳くらいの頃だった。実年齢を尋ねたことはないけれど、どう計算しても18歳であるはずのない知人が「青春18きっぷで旅行に行きたい」と話すのを聞いたからだ。それでも、そのときの僕は一を聞いて十を知る物わかりのよい性格が災いし、なるほど青春18きっぷという名前のツアーがあるのか、参加費18000円だからそう呼ばれているのかな、青春っぽい土地(湘南とか甲子園とか)でも巡るんだろうなどと、自分にも他の誰にも特に都合の良いわけでもない解釈を勝手に腑に落としていた。

興味のあることと業務上知る必要のあること以外の世間にひどく疎い僕が、「青春」と「18」の錯覚コンボアタックによって長らく自分を対象外に置いてきた僕が、どうやらその切符を使える権利を保障されているらしいと気づくには更に数年を要した。そして38歳を迎えた今年、生まれて初めて青春(ウワーッ)18(グァーッ)きっぷで帰省しようとしている。その名を唱えるだけで息も絶え絶えになりながら。

12:53 中央線快速 荻窪発東京行

おそるおそる有人改札に細長い切符を差し出す。ここから東京駅までは特にどうということもない、日常的に利用している路線なのだけれど、なにしろ初めて使う切符である。使ったことがないというのは使える保証がないのと自分の中では同義なので、差し出した券面を訝しげに見つめ返されたり、あるいは理由も告げずに突き返されたりしたらどうしようという不安が急激に込み上げてくる。いや、突き返されるだけならまだいい、券を見ながら別の駅員とヒソヒソ相談をされたり、自分が知らなかっただけで実は昨日から青春18きっぷの使用が違法とされていて警察を呼ばれてしまうかもしれない。自動車教習所で叩き込まれた「かもしれない」の嵐が脳内を駆け巡り、屋根を吹き飛ばし、電信柱を薙ぎ倒してゆく。それらの不安をよそに差し出した切符は無事御朱印が捺されて手元に返ってきた。こんな性格だからだろうか、頭の中に比べれば世の中はずいぶん甘くできている。

実はここにたどり着くまでに、家を出て5分ほど歩いたところで18きっぷ自体を家に忘れてきたことに気付き計10分ロスしている。まあ、いつもの癖でパスモを使って改札を通過する、いわゆる「うっかりパスモ」をやらかさなかっただけ良しとしたい。

13:52 快速アクティー 東京発熱海行

荻窪から東京まで、常識的に考えて1時間もかかるはずがない。しかし事実として1時間かかってしまった。現実の前に常識は無力だ。

原因はどうも東海道線の遅延らしく、乗り慣れない東京駅10番ホームの時刻表示は静かに狂っていた。43分発の(遅延していない)品川行き特急のあとに27分発(20分遅れ)の小田原行き各駅停車がある。あくまで時系列どおりの並びを遵守する姿勢に僕の脳は感心する間もなく混乱をきたし、タイ人っぽい若者から「すいません、わたしは、この電車が、熱海に行きたいと思いますか?」とカタコトで問いかけられても「わからない、いつかは来ると思います」という冷たいアンサーを返すしかなかった。

15分遅れで到着した東海道線熱海行きに乗る。つかこうへい「熱海殺人事件」でその名を知った町。サスペンスドラマにおける断崖の聖地という(ほぼ偏見に近い)イメージのある町。それにしても熱い海、ものすごいレトリックだと思う。苦い夢、白い闇、短い永遠、熱い海……

15:40 東海道本線 熱海発浜松行

乗り継ぎの列車は降りたホームのすぐ向かいに来るので迷わずに済んだ。ホームの自販機に「気仙沼産ふかひれスープ」という物珍しい飲料を発見(140円)。気仙沼産なら別に熱海のご当地ドリンクでもなんでもないのだと、理解が追いつくよりも一瞬早く指はボタンを押していた。いつもこう。いっつもこう。

このあたりから大型のリュックサックやスーツケース、キャリーバッグなどを持った乗客の比率が高くなってくる。みんなの鞄がデカイ、ただそれだけで年の瀬を感じるというのは、これは一体どういうバタフライ・エフェクトなのか。劇場入りの初日とか、みんなもっと大量の、そこまでするなら車に積みなよと思うような荷物を持ち寄っているはずなのに、そのときは年の瀬なんて感じたことがないのに。

満員なので立っている。ここから次の乗り換えまでは2時間強、今回の旅程で最も乗っている時間が長い列車で座れなかったことは今後、僕の脚力や体力にどう影響するだろうか。あの時のあれが伏線になって階段を走って上れず移動が詰む、みたいなことがないとは限らないと思うとゾクゾクする。背中にカイロ貼ってくれば良かった。

そういえば先程からずっと、膝の裏側に温かいものが触れている。こどもだ、こどもの体温だ。こどもが不規則に揺れる電車のビートに負けじと僕の左足にしがみつき、バランスを保っているのだった。よかろう、こどもよ、どこで降りるか知らないが、当分は君の人柱になろう。大丈夫、おっちゃんにはそれができる。

18:28 東海道本線 浜松発豊橋行

いつのまにやら陽も落ちて、寒波が実体を持って襲いかかってくるようになった。人柱の覚悟もむなしく、先ほどの子供は2駅先ですぐ降りた。電車特有の、座席の下の鉄板のスキマから噴き出してくる謎の熱風が、今はたまらなく愛おしい。

これまで新幹線や夜行バスで帰る時には意識しなかったことだったが、東京から太平洋側を通って近畿圏に入るまで神奈川→静岡→愛知とわずか3県しか経由しないのだ。そう考えると近そうに思えてくるが、実感としてはやはり遠い。あれだけ電車乗ってまだ静岡にいるの? 静岡は国境の長いトンネルなの?という気持ちになる。変なとこから名文を引用したせいで積雪フラグが立ってしまった。

東海道線を降りて再び東海道線へ乗り換える。浜松で乗り込んだ列車は縦並び、つまり新幹線と同じような形式の座席だった。また新幹線同様、向い合わせの4人掛けにカスタマイズすることも可能らしいのだが、そのやり方が少し変わっていて、座席を回転させるのではなく、座面は固定のまま背もたれだけを前後にずらすのだ。地元の、部活帰りらしい、全員同じ色のラインが入ったジャージを着ている高校生たちは、乗るや否やテキパキと椅子の向きをトランスフォームさせテキパキとグループ毎に分かれて着席してゆく。おろおろしているうちに空席はすべて埋まってしまった。

19:19 東海道本線特別快速 豊橋発大垣行

ここも座席は縦並び。さも初めから知ってましたよという感じのポーカーフェイスを維持しながら背もたれをスライドして2人席に座る。

そろそろ書くことがなくなってきた。なにしろ(青春18きっぷの醍醐味であるはずの)途中下車というものをしていないから、乗り換え時以外に風景が変化しないのだ。車窓からの景色をレポートしようにも東海の夜はすでに昏く、窓にうつる自分の姿をつぶさに描写できるほど非凡な顔もしていない。

あえて言うと、土地勘のなさ故に名古屋を乗り過ごすのではないかという不安が頭をもたげてきた。長旅の疲れで少し眠気も出てきている。ここまでの列車はすべて終点乗り換えで何も心配いらなかったが、いま乗っているのは大垣行きの特別快速だ。どうやら現在は蒲郡という駅にいて、次は岡崎に停車するらしいのだが、それがどこなのかわからない。名古屋よりも手前であるという確証が持てない。到着予定時刻からして多分まだ先のはずだという希望的観測はできるものの、蒲郡あるいは岡崎から名古屋までの具体的な距離感が掴めない。あと終点の大垣も名古屋からどのくらい離れた場所なのかわからない。なにしろ「特別」「快速」「急行」である、迂闊にも乗り過ごしたら一体どこまで連れて行かれるやら…油断してはならない。中野から三鷹まで矢のように飛ばされた記憶が蘇る。リメンバー・中央特快。いまも、こうして文章に集中しているうちにアナウンスを聞き逃してはいないか、と不安になって何度も顔を上げては、さっきまでと変わらぬ「次は 岡崎」の案内表示に救われている。

20:18 名古屋駅着

冗談みたいに語呂のいい時刻に。

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