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でかい未来に期待抱いてるだろうか10年後中年の俺

高校時代の友人と飲みに行った。

・・・だけなら普通のことかもしれないけれど、なんと彼と会うのは高校卒業以来、15年ぶりのことだった。

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飲み会の話は横において、15年ぶりともなると、それこそ大学で何をやって、どういう15年を過ごしていたのか―という話になる。否が応でも振り返らざるを得ない。

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どっかで書いたかもしれないけれど、大学生の頃には、30代の自分なんてまったくもって想像できていなかったと思う。

昨日帰りながら改めて思ったのは、そうでありながら、漠然と何者かになれていることを淡く期待していた、ということだ。
今の子はもっとちゃんと考えているのだと思うのだけれど、当時の僕はキャリアなんてものを真剣に受け止めて考えることはできなかった。要は、学生らしく(と言っていいのか)ただ遊んでいたかった。それでいて、将来はなんとなくなんとかなると思っていた。まったくもって甘いとしか言いようがない。

そこから紆余曲折を経て、結婚をして、30をすぎて、子供ができて、今に至る。

そして、言うまでもなく、何者でもない自分がそこにいる。

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子供ができて顕著になったと思うのは、将来どうなりたい、みたいなことをあまり考えなくなってしまったことだ。子育てが忙しい、仕事が忙しい、いろんな理由はあれど、最大の要因は自然と”守り”の姿勢になってしまったからだと思う。

ただ、思い返してみて、自分はそもそもこうなりたいという強い思いみたいなものが薄弱な人間である。だから就活のときもこういう仕事をしたいというものがなく、こういう人とだったら働いてみたい、という軸で企業を見ていた。

ファーストキャリアでは、たまたま与えられた仕事が性に合っていたこともあって、こういう仕事がしたい、と自ら働きかけていくことはなかった。

悲しいことに、世の中で評価されることは、どういうことができるのか(ハードスキル)、どういう人脈を持っているか、といったところで、その双方が重要だなんて全くわかっていなくて、むしろ人脈なんてのは正攻法じゃないみたいな天の邪鬼な姿勢すらもって、気づいたらほとんど30になっていた、というのが僕である。

そして30を目前にキャリアのフィールドを変え、変えたのにも関わらずフラフラ寄り道したりし、何とかそのフィールドで頑張ろうとしているのが今である。そういうわけなので、同じフィールドに新卒からいるような人に比べればキャリアは浅いし、未だに何かが自分に身についているのかというとものすごく怖くなることがある。
今ならまだ遅くない、と信じたい気持ちと、恐怖とのせめぎあい。

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こういう感じで、このところ反省することばかりである。

15年も何をしていたんだ?

と自分の中の誰かが問いかけてくるような気がする。15年経って少しは世の中のことをわかった自分が、過去の自分を責めている。

そして、改めてこれを書きながら思ったことは、「心のどこかで、未だに”いつか何者かになれる”という淡い幻想を抱いていた」ということだ。

だからこそ、子育てだなんだといいながら、将来どうなりたいか考えることをないがしろにできたのだと思う。

役職が上がったところで、別に何者かになれるわけではない。

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さて、反省はいったん切り上げることにする(悲しくなるので)。

「それで、改めて10年後、自分はどうなっていたいのか」

ということを、真剣に考えなければならない。

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社会人になる前から知っていて、全く違うフィールドの友達と話すと、反省することもあれど、刺激を受けることもたくさんある。本当に貴重なことだなと思う。
友人というのが得難く貴重なものだということも、最近になってようやく分かってきたことのひとつだ。

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でかい未来に期待抱いてるだろうか 10年後中年の俺
”手紙〜未来” / ケツメイシ

懐かしい曲が聞きたくなってケツメイシ聴いてたら、手紙〜未来、好きだったなと思い出した。当時は30代の自分すらよくわかっていなかったけれど、リアルに「10年後中年の俺」という世代になってしまった。

最後までお読みいただきありがとうございました。 このnoteのテーマは「自然体に綴る」です。 肩肘張らずに、「なんか心地いいな」と共感できる文章を探したくて僕も書いています。なにか良いなと思えるフレーズがあったら、スキ!やフォローをしてくださると励みになります。