見出し画像

村上春樹的・30代における人生の変化

このnoteは「ふつうの人の綴る、ふつうの文章」をテーマにしています。要は好き勝手に書いています。

■■■

村上春樹は29歳で小説を書き始め、30歳で小説家デビューをした。しばらくは自分が経営するジャズ喫茶を切り盛りしながら小説を書いたが、32歳のときに専業作家になることを決意し、店を売却する。

そういう経緯があるからか、村上春樹の初期の小説には30代前半に関する言及が多いように思う。これが全てではないと思うけれど、いくつかの言及を抜粋してみた。

■■■

"様々な人間がやってきて僕に語りかけ、まるで橋をわたるように音を立てて僕の上を通り過ぎ、そして二度と戻ってはこなかった。 僕はその間じっと口を閉ざし、何も語らなかった。 そんな風にして僕は20代最後の年を迎えた。"
「風の歌を聴け」
"僕は少しずつシンプルになりつつある。僕は街を失くし、十代を失くし、友だちを失くし、妻を失くし、あと3ヶ月ばかりで二十代を失くそうとしていた"
「1973年のピンボール」
"さて、と僕は思った。三十四にして僕は再び出発点に戻ったわけだ。さて、これからどうすればいいのだろう?"
「ダンス・ダンス・ダンス」
"35歳になった春、彼は自分が既に人生の折り返し点を曲がってしまったことを確認した。
(中略)
それでも彼は35歳の誕生日を自分の人生の折り返し点と定めることに一片の迷いも持たなかった。"
「プールサイド」(「回転木馬のデッド・ヒート」に収録)

これらは小説からの抜粋であるけれど、村上春樹は「走ることについて語るときに僕の語ること」というエッセイで、自身の33歳について以下のように言及している。

"三十三歳。それが僕のその年の年齢だった。まだじゅうぶん若い。しかしもう「青年」とは言えない。イエス・キリストが死んだ歳だ。スコット・フィッツジェラルドの凋落はそのあたりから既に始まっていた。それは人生のひとつの分岐点のみたいなところなのかもしれない。"
「走ることについて語るときに僕の語ること」

■■■

確かに、30歳に近づくにつれて、「このままでいいのだろうか」と思う気持ちは生まれる人は少なくないと思う。(僕もそうだった。)そうした中で、村上春樹が「それなりに上手くいっていた喫茶店を辞めて小説家になる」というリスクを取った背景には、「自分は何者でもない」という危機感みたいなものがあったのかなと推察する。

"三十三歳。それが僕のその年の年齢だった。まだじゅうぶん若い。しかしもう「青年」とは言えない。"

この時の村上春樹は専業作家としてのスタートを切って間もない頃であり、おそらく「これで食っていける」という確信はまだなかったのだろうと思う。(ノルウェイの森が大ヒットするのは38歳の時である)

彼の小説の主人公は、「お金には困っていないが、心に穴が空いているような空虚さを抱えている」みたいなプロフィールのことが多いけれど、多分に自身の経験が跳ね返っているように思う。おそらく、ジャズ喫茶は(最初は好きで始めていたとしても)徐々に自分のあるべき姿がそこにあるとは思えなくなっていたのだろうなと思う。確か、なにかのエッセイで、確か「こう見えてジャズ喫茶をやっているときは愛想よくしていた、ジャズ喫茶をやっているときに一生分喋った」的なことを述懐していた。ジャズは好きだけれど、色んな客に愛想良くしなければならない仕事は大変だったのだろう。

ちなみに、小説「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公は「文化的雪かき」をすればそれなりに食べていける収入を得ているという設定である。村上春樹は文化的というより文字通り肉体労働だったわけだけど、まさに似たような状態だったのかなと思う。

そんなわけで、30代というのは「自分は何者なのか」を打ち立てるという点で、とても大事な時期なのかもしれない、と勝手に思っている。

■■■

そんな村上春樹は、遠い太鼓というエッセイで、40歳について以下のように述べている。

"四十歳というのはひとつの大きな転換点であって、それは何かを取り、何かをあとに置いていくことなのだ、と。"
「遠い太鼓」

30代までに、とにかく多くを取り込み、可能性を発散させて、40歳を境にそれを取捨選択し、絞り込む、ということなのかなと思う。願わくばそのようになれば幸せなように思う。

最後までお読みいただきありがとうございました。 このnoteのテーマは「自然体に綴る」です。 肩肘張らずに、「なんか心地いいな」と共感できる文章を探したくて僕も書いています。なにか良いなと思えるフレーズがあったら、スキ!やフォローをしてくださると励みになります。