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愛と慈しみを持って生きよ

2022年10月23日(日)の四街道教会における礼拝メッセージを公開します。聖書箇所は以下の通りです。

旧約聖書:ヨブ記38章1〜18節
使徒書:使徒言行録14章8〜17節
福音書:ルカによる福音書12章13〜31節

礼拝全体はYouTubeに公開していますそちらも是非ご視聴ください。

本文:

 おはようございます。今日から教会の暦が変わりまして降誕前節が始まりました。今日からクリスマスを迎えるまで教会の主日礼拝では、旧約聖書を通して救い主イエス・キリストの誕生までにどのような歴史がありどのような神の言葉が語られてきたのかを思い起こす時を過ごします。暦が切り替わる最初の日曜日のテーマは「創造」です。創造とは神さまがこの世界を、自然界を、そして人間をお造りになったということです。聖書は天地万物が神さまに造られたのだという価値観を私たちに伝えており、イエスもまたそのような価値観を持って生きる人間の一人として聖書には登場しています。

 本日朗読されたルカによる福音書のイエスの言葉を改めて読んでみます。「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」さらに続けて「野原の花がのどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。」

 同じイエスの話が収録されたマタイによる福音書では「鳥のことを考えてみなさい」となっていますが、ルカではわざわざここを「カラス」に変更しています。日本語の翻訳だと偶然にも横線一本あるかないかの漢字の違いですので思わず見落としてしまいますが、オリジナルのギリシア語聖書では大きく違います。ルカがわざわざカラスというのは鳥の中でも特に嫌われている鳥、汚れているから食べてはいけないと聖書で言われているカラスですらという神は養うと強調したいからです。

 でもここに聖書が伝えたい本来のことと私たちがイメージすることの間にはギャップがあるように思います。私たちはこのイエスの言葉を聞くと牧歌的なイメージを持ちます。スズメのような小さな鳥にせよリスのような小さな動物にせよそれらの生き物を造られた神さまが養ってくださっているのだというイメージです。でもそれは聖書が本来意図していることでしょうか。聖書は人間と動物は違うのだと語ります。それは私たちが人間界と自然界を見比べてみても分かることで、自然界のルールは弱肉強食です。私は結構自然界に生きる動物のドキュメンタリー映像が好きなんですけど人間の目から見ると時に残酷なシーンもあります。たくさん子どもが生まれても大半は子どものうちに肉食動物に食べられてしまいますし、サバンナの食物連鎖の頂点に君臨するライオンだって怪我や病気、歳をとるなどの理由で狩りができなくなると群れから外れて飢えて死んでしまうのが自然界の姿です。聖書の神は人間にも自然界のルールに従って生きよとは言っていません。聖書の神は人間に対して貧しい者、住む場所を失った難民、夫に先立たれて生活の苦しい未亡人のことを助けなさいと命じます。麦の収穫の際には落穂をそれらの人のために残しておきなさいと。それが神の定めた人間界のルールであって弱肉強食ではありません。

 イエスはここでカラスは種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たないけれど弱肉強食という厳しい自然界のルールの中にあってもその日その日の食べ物を見つけて生きていくことができるのだと語っています。逆に言え動物は今日を生きられても明日も生きられる保証はどこにもなく、明日は肉食動物の餌食になっている可能性もあります。「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草」は動物においても当てはまる話です。イエスはそれでも神に造られた動植物たちは自然界のルールの中で生きている、生かされているのだと語ります。では明日の補償が全くない自然界に生きる命に対して人間はどうでしょう。人間は毎日食べ物を探す必要はありません。種を蒔き刈り入れをすることができます。農業です。また収穫物はその日のうちに食べなければいけないのではなく納屋や倉に入れて保存することが可能です。だからそれらの収穫物を自分だけのものにしないで貧しい人たち、困っている人たちにも分け合い助け合いなさい、愛と慈しみを持って共に生きなさいとイエスは言いたいのでしょう。

 創世記に記されたヨセフ物語を思い出します。ヨセフがどんな人なのか、その人生を簡単に紹介しますとまず兄たちにねたまれ、彼らの策略によってエジプトに奴隷として連れ去られてしまいますが彼はそこで出世してファラオの右腕の地位を得ました。そしてエジプトを含め周辺地域に飢饉がくることを預言し、豊作の時に大量の食糧を保管することを指示します。ヨセフの預言通りになって飢饉がやってくるとたまらず周辺地域の人たちがエジプトに食糧を求めてやってきました。ヨセフは彼らに食糧を分け与えるように命じます。現代のように困っている人の足元を見て高額で売りつけるということもなく。そしてついにヨセフの元に自分を捨てた兄弟たちが食糧を求めてやってくるのです。彼は最初けっこうないじわる、復讐を兄弟たちにしますけど最終的には神が人間に求めている倫理に従って兄弟たちを赦して食糧を分け与えたというお話です。

 動物も植物も人間もすべては神さまに造られたということに心を留めるのが今日のテーマである「創造」です。しかし自然界に定められた神のルールと人間界に定められた神のルールは違うのだと言うことにも今日は心を向けたいと思います。人間界は弱肉強食の世界ではありません。弱い者、困っている者に対して自己責任論を振りかざすのは神に背く生き方です。私たちは空の鳥とは異なり種を蒔き、刈り入れをし、収穫物を納屋や倉に入れることができるよう神さまに造られました。自分のためだけに蓄えて用いるためではなく困っている人を慈しみの心を持って接し、それらの人たちと分け合って生きるためです。神は私たちに神の霊を送ってくださり、他者の痛みに共感し、慈しみと愛を分かち合って生きられるよう私たちを創造してくださいました。

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キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

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