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最後の医者は、桜を見上げて君を想う

医者は、「病気」と向き合うのか「患者」と向き合うのか。

私は、死神と呼ばれている桐子先生の言葉に何度も考えさせられました。

延命治療の必要性

残された人たちの想い

大抵の人は、自分が死に直面しないと生きることについて考えないと思います。
ベルトコンベアに乗せられたまま、淡々と生きていく。命の期限を、可能性を提示されて初めて「自分らしく生きる」とはということを考えるのではないでしょうか。

医者は、命の可能性を「この処置をしたら何%の確率で成功します。」と教えてくれます。しかし「決めるのは、患者さんです。」と言います。
(処置には、全力を尽くしてくださると思いますし、今の医療技術において最善のことをしてくださると思います。)

果たして、その処置をすることは、本当に患者さんのためになるんでしょうか。
例えば、抗がん剤治療を行い、体がボロボロになりながらも生きていく。私は経験したことがないので、どのぐらい辛いものなのかはわかりません。
そして、その抗がん剤治療も、100%の確率で治るものではありません。
その時に、緩和ケアを行い自宅で人生を終えたいという人もいるかもしれません。そういう人たちに、抗がん剤治療を勧めるのでしょうか。

何が正解で、間違っているか、答えのないものだと思います。
治療を無理に勧める以外の手段もあるのではないかと感じました。

私もこの本を読むまでは
可能性に賭けてその一時が辛くても、その後健康に生きることができるのであれば、処置をするべきだと思っていました。

いつか命が尽きることを知っているけれど、それがまだ先の何十年後の漠然とした話でしかない。

今回の新型コロナは、「」とは、「生きる」とはということについて考えるきっかけになったと思います。

最初の頃は、1ヶ月も経てば落ち着くだろうと思っていました。若い人の感染リスクは低いとも言われていたので、まだまだ外出していました。正直、経済を回さないリスクの方が大きいと思っていました。

私の意識が変わったのは、地元に最初の感染者がでたときです。

「家族が死ぬかもしれない」

漠然と不安に襲われました。死を身近に感じました。

この事態が終息せず、もう家族に会うことが出来なくなったらどうしようと思いました。実家は、田舎なので、自分のエゴで帰省して感染させてしまったときには、村八分にあいます。
簡単に帰省するわけにもいきません…。

もう家族に会うことができないかもしれない。
友達に、大好きな人たちに、会うことができないかもしれない。

仕事は、解雇されることはない。そういう意味では、安定した位置にいる。
しかし、それでいいのだろうか。自分が大事にしたいことは、なんだろうか。
仕事?プライベート?家族?恋人?

私は、まだこの答えを見つけていません。

もちろん時間は有限です。でも今焦ってこれだというものを見つける必要はないのではないでしょうか。

ただ、なんとなく流されるように生きるわけではなく、いろいろなことに興味を持ちながら、どこかで自分の核となるようなものを見つけることができればいいと思っています。

「死なない程度に生きること」

お付き合いいただきありがとうございました。

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