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急に具合が悪くなる 宮野真生子・磯野真穂

先日読んだ「ダイエット幻想」の中で触れた「急に具合が悪くなる」
前の感想でダイエット幻想の後半部は宮野氏の影響で議論が薄まったんじゃないかと書いた。イメージで批判するのはよくないから、実際に読んでみた。宮野氏とのやり取りの影響はあるけれど、考え自体は磯野氏スタートのものだったと思う。議論の失速感は、どちらかというと紙面の問題だったのかなと。ダイエット幻想後半の部分を、本書では丁寧に扱っていた。

「急に具合が悪くなる(晶文社)」は人類学者の磯野真穂と哲学者の宮野真生子による往復書簡を載せた、ちょっと変わった作りの本だ。全10回の手紙のやりとりは読みやすく、一気に読んでしまえる。

話題の中心は、著者宮野氏のガン闘病生活について。前半は、リスクの話題が面白かった。今の時代のリスクと言えば、感染症にかかるリスク、移すリスク、そして死ぬリスク。この本のリスクは、宮野氏の治療や手術、薬の副作用の話題だったけど、全部コロナにも当てはまるリスクの話だった。


確率的には、「この××をすると◯◯%の人が感染しない」と言える。でも、自分が◯◯%側の人間かどうかは分からない。どんな病気もなるときはなるし、ならないときはならない。だからできることはするけれど、ほどほどにリスクを計算して生活する。だって2年前までみんなマスクしていなかったよね。確率的には、マスクをつけた方がインフルエンザにかかりにくい。だからインフルにかかりたくない人は、マスクをした方がいいはず。わざわざ高熱でしんどい思いをしたい人は、ほとんどいないだろうから、みんなマスクをしていた方がいいってことになる。
でも、今のようにほぼみーんなマスクをつける、なんてことはなかった。つまり、マスクをつけて防げるリスクよりも、他の条件(息苦しいとか化粧が崩れるとか耳が痛いとか)を優先して、つけないという選択をしていた。選択したというより、選ぶ意識すらなかった人だろう。一部の体質の人にだけ、つける・つけないの選択肢があった。花粉症とかね。もっと正確に言えば、病気によってマスクをするという選択肢しかなかった人もいるだろう。

この屁理屈っぽいマスク話から分かるのは、いつもはテキトーに生きてるけど、いざというとき「確率」のお世話になるということ。健康で問題なく生きていたら、わざわざリスク計算なんてしない。おやつにアンパンを買おうが、クリームパンを買おうが、もちろん両方買っても良い。帰り道に遠回りして階段を使ってもいいし、楽して近道をしてもいい。どちらの選択をしても大して自分の人生に影響はない。

でも、例えば糖尿病になったら?毎日の糖質を管理しないといけない。状態にもよるだろうけど、制限量プラス数グラム多く食べたって、死にはしないだろう。でも、医学的に、つまり確率的にこれだけ食べた人の数年後はこうなるというデータを知ってしまった以上、そんなリスクを取ることはできなくなる。両方買いは夢のまた夢。自分がこれまでの患者と全く同じ病状で進行するとは限らないのに。
これまでは近道しても遠回りしても、どっちでもよかったのに、「1日◯◯キロ歩いた××%の人の病気の進行がゆっくりになります」と言われたら、自分が××%の人と同じようになると限らなくても、遠回りするしかない。そっちの方がよりリスクを下げられるのだから。こうやって自分の生活を制限していく。リスクという目に見えない、実現していない未来に怯えて、そこから逃げるような生活が始まる。

病気になる前から、糖分は取りすぎず、適度に歩いた方が健康にいいことは知っていた。でも、その時の気分や状況で、自由に決めることができた。ところが、目の前に具体的な確率、つまりは何らかのリスクが出てくると、途端にその自由は失われる。それが自分だけの損害ならまだしも、家族や友人、同僚にも迷惑がかかるとその「リスク」がプレッシャーをかければ、人は簡単にリスクの奴隷になってしまう。

リスクのずるいところは、それを無視して悪い未来がやってきたら、「だから言ったでしょ」と言うことができ、かつ例え無視して悪い未来が来なくても「それはあなたの運が良かった」と言って逃げることができる。また、リスクに怯えて生活しているのに、それでも悪い未来がやってきたとき、リスクはそれまでの制限されて苦しい生活に対して何も返してくれない。こんなことならリスクを無視して好き放題すればよかったと思っても、時すでに遅し。リスクなんてただの確率なのだから、それを受けて起こった自分の変化に誰も責任をとってくれない。あなたがリスクを計算して行動を選んだだけだから。あなたに責任はある、リスクは判断材料の一つに過ぎない。そうしてまた、リスクによって人は振り回されていく。

こういう人もいるかもしれない。「リスクを軽んじてはいけない。だって人の命がかかっているんだよ」と。だから、リスクによって行動が制限されるのも致し方ないという論理がそこにはある。そりゃ、人の状態を健康と病気、あるいは生と死で分けるなら、前者である方が良いに決まっている。でもそんな風に人間は分けられない。リスク回避によって死ぬほど辛いこともいれば、病気であっても幸せな瞬間は訪れる。リスクだけ見ていては、人が生きていることを見失ってしまう。


長くなってきたので、ぼちぼちまとめよう。重大な選択をするときに、人は確率に頼る。自分の手術の成功確率を知らずに受けるなんてことはしない。しっかり考えて、高い確率の方に賭けられるからこそ、自分の人生をより良いものにできる。なんでも全部運まかせでは何もできない。一方で、ただの確率がいつの間にか私たちを縛る「リスク」になっている。リスクは中立なふりをして、「かもしれない」悪い未来だけを見せることで、人の生活を無責任にかき回す。宮野氏はガン患者としてこのリスクの恐ろしさを語ってくれたが、まさか1年後に全世界の人間が同じ状況に立たされるとは思っていなかっただろう。

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