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心はどこへ消えた? 東畑開人

 ついつい僕は、大きくて抽象的で、血の通わない文章を書いてしまうなあ。

 東畑開人の「心はどこへ消えた?」は、そういう大きな話ではなく、具体的で個別の、カラフルなエピソードが詰め込まれたエッセイ集。

 臨床心理士の筆者が、これまで出会ってきたクライエント(カウンセリングに来た人)について、事実を一部変えたり、創作したりして作られたエッセイがたくさん載っている。


 しかし、あとがきにはこんなことが書かれていた。

 ただし、一つのエピソードだけは、細部の具体的な事実にこそ心が宿っているように思われたため、ファクト(事実)を書かせてもらった。




「細部の具体的な事実にこそ心が宿っている」
 とてもよいことばだ。


 僕が書きたいお話は、今一緒に過ごしている人たちの日常。特別だけど、特別じゃない、普通の日常。
 でも、それはあまりにもプライベートで、細部の事実を書いてしまうことは暴力でもある。

 個人情報の保護とか、小難しくて大切な理由があって、人の生活を勝手に公表するのは良くないことだ。
 だから、固有名詞を伏せたり、少し嘘を混ぜたりして、エピソードを作る技がある。

 それでも「細部の事実にこそ心が宿っている」と僕は感じるから、できるだけ細部な事実を大切にしたい。


 例えば、何かを守るために、「チョコパイ」や「コアラのマーチ」ではなく「チョコレート菓子」と表現する。節約のためにお茶を買うのは「とあるスーパー」になるだろう。
 彼の好きなものは「午後の紅茶」ではなく、「飲むヨーグルト」と書かれるかもしれない。そんなことあって良いのか。
 「アタック25」を「某クイズ番組」としてしまうと、何かが失われる気がする。

 書かれた人たちが、今も同じ時間を過ごしていること忘れてしまいそうになる。
 匿名化したり、嘘を混ぜたりして曖昧になった「その人」は、もう「その人」ではなくなってしまう。


 私たちのことを知っている人、そして知らない人にも、こうして今も私たちは暮らしていると伝えたい。

 そのためにも、できる限り細部の事実にこだわったエピソードを僕は描きたい。細部の事実にこそ心は宿っているだから。


※結局抽象的な話が多くなってしまった。例えば、こういう話を描きたいと思っている。

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