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言葉を失ったあとで 信田さよ子・上間陽子

対談形式の本で、感想を書くのは難しい。
でも、とてもいい本だった。

だから、がんばって書き残す。


 数年前と比べて、「唯一絶対の正しさ」みたいなものとずいぶん距離を取れるようになった。

 言葉を探しながら迷いながら、綺麗な言葉じゃなく等身大の言葉で、自分の思いを話す力が身についてきたのだと思う。


 自分の思いを話すことについて、3年以上前に書いたメモを引用したい。言葉がとても堅苦しくて、論文ばっかり読んでたんだなあと懐かしい気持ちになった。

メモのタイトルは「正しい言葉」

 自分の感じたことを言葉にして、それを他人に正確に伝えるのはとてもとても難しい。厳密に想いを分かってもらいたいときには、何度も繰り返して、表現を工夫しながら説明しないといけない。

 口を開いていきなり正確に、適切な言葉だけを語るのは難しい。人に聞き返されたり、質問されたりして、初めて自分の思いはこうだったのかも、ああだったのかもと気づいてゆく。

 適切な言葉だけを吐いていたい気持ちは山々だけど、相手によってもその適切性は異なり、絶対的に正しい語り方、聴き方はないのだということは、色んな人たちと対話を積み重ねていく中で実感した。


 言葉の正しさの基準として、まず自分がここ最近こだわってきた、理論に基づいた言葉の並びがある。理論や歴史的な背景に基づき、どんな研究や思想の流れがあって、今の話が進んでいるかを大切にする話し方だ。前提知識を共有する人たちが、話題となる理論や実践はどうしたらより良い状態になるのか検討するディスカッションに適している話し方だと思う。

 こうした話の中で、これまでの流れに敬意を払いつつも、オリジナルなアイデアを示していきたいと強く願っている。

 この語り口とは違うあり方として、「自分自身の身体感覚に基づいた言葉選び」もある。今ここで自分自身が何を感じて何を思うのかを包み隠さず言語化していくことである。

 はっきり言って、僕はこの話し方が得意ではない。そして、苦手意識も相まってそうした言葉たちを軽んじる傾向もある。実際厳密な医療や物理化学において、個々の何となくの感覚だけで進められることはないだろう。

 しかし、その言葉たちの豊かさや価値を切り捨ててはいけないと思う。少なくとも現時点で心理学的実験や調査を行う上では、自分なりの曖昧な感覚で進めるわけにはいかないけれど、どこかで自分の身体の声を聴いていたい。

 少しでも相手の思いを正しく受け止めたいし、僕の思いも正しく受け取ってほしいと思う。

引用おしまい。

 客観的な言葉の正しさに囚われつつも、自分自身の身体感覚に基づいた言葉選びの大切さも同時に感じていて、昔の自分はえらい!と褒めてあげたい。

 そろそろ読んだ本の話をしよう。

 著者の信田さよ子・上間陽子ともに人の話を聞いて、物を書くことを仕事の一つにしている。言葉の力を信じて、様々な人の声を聞いている。

 信田さよ子は臨床家(カウンセラー)として依存症の患者の言葉を、上間陽子は社会学者として沖縄の若い女性の言葉を聞き取り、治療や支援を続けてきた。

 対談での会話をほぼそのまま本にしているので、話題もコロコロと変わり、論点は数えきれない。


 僕なりに要点を煮詰めると「自分自身の身体感覚に基づいた言葉選び」が生まれる瞬間が、カウンセリングにおける回復だったり、社会調査で出会う人たちの実態の表現だったりすると思った。

 それは、どこかで見た・他人から押し付けられた「それっぽい言葉」ではなくて、安心できる場で自分の心・身体と向き合ったときに出てくる言葉と丁寧に向き合うこと、とも言えるかもしれない。

 苦難の中を生きる人たちと、失われた言葉を一緒に探している2人の対談だったと僕は受け止めた。

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