生きてるだけで本当にいいのかーユング心理学ー

集合的無意識につながると、私たち思考が見せる世俗的な欲求や願いを超えた、人類全体の一部としての自己の欲求や願いを理解をする。

難しい話ですよね。は?って感じです。
今日の主題は日々起こる嫌なことが何故私たちの身に起こって、何故他人の人生はいつも薔薇色に見えるのかと言うことです。
それに付け加えて、じゃあどうすれば幸せに生きることができるのかを解説します。

私たち個人は、結局は人類という集団や地球という星の一部にしか過ぎません。
とはいえ、一部としての役目を果たすには強すぎる自我を持っています。
だからこそ、人類全体のために誰かしらが請け負う必要のある理不尽や不幸も、いざ自身の身に起こると許容するのが難しいのです。
難しいから、それらをなんとか解決しようと奔走するけれど、残念ながら私たちには本質的に解決する能力が与えられていません。
病気を治すことはできても、病気になる運命そのものはどうしようもないのです。
貧困から脱しても、貧困であった過去から逃れることはできません。
さらに、物事の変化は常に時間を要します。
指パッチンで物事は変わらなし、アマゾンですら、届くのに最短でも1日を要しますよね。
宅配ピザだって、30分は待たなくてはいけないし、冷凍食品を食べるのにも5分程度レンジで温める必要があります。
じゃあ受け入れられないような不幸をなんとかするのに数年や数十年の時間がかかるのはこの世の摂理としては至極真っ当ですよね。
どんな不幸や理不尽も私たちの心はいつか必ず受け入れることができます。
生きようとしている限り、私たちは生きるために必要な全ての機能を持っています。
だからいつかは必ずなんとかなるのです。
不治の病も、愛すべき人の死も、貧困も、戦争も、何もかもいつかは必ずなんとかなります。
じゃあそのいつかはいつなのか。
わからないのです。いつかは多分いつでもいい。でも今じゃない。
今苦しい私たちに、いつかなんとかなるなんていう気休めはまるで見当違いなんですよね。
私たちは今この瞬間の苦しみをなんとかしたい。
しかしいつも、なんとかしたいときになんとかする方法がそこにはない。
或いは、あるのに気づけない。
あるとしても、それを行使するのに随分と大袈裟な決断が必要で、当然そんな決断を下す力は残されていない。
どんなに仕事が辛くても、辞めようと考えると家族や世間の目がチラつきます。
だから私たちは永遠に辛い。
一つトンネルを抜けても、またすぐ別のトンネルに入る。
時間はいつも意地悪で、トンネルの中の暗闇を永遠のように感じさせるくせに、陽の光は一瞬で過ぎ去るように感じるものです。
それでも一つ、根本的な解決策があります。
それは、トンネルの暗闇を楽しめるようになることです。
心理学は、幸せも不幸も認知の問題のであることを解き明かしています。
要は全て勘違いです。私たちが素晴らしいと思っていることそのものは素晴らしくもなんともなく
同様に、私たちが親の仇ほど憎んでいることは、親の仇でもなんでもないのです。
全ては私たち自身の心の投影であり、認知の歪みであると言えます。
となれば、私たちが不幸だと思い込んでいることを、不幸だと感じなくなってしまえばそれでなんの問題もないですよね。
そのためにどうするかは、色々な方法が語られています。
仏門に下るとか、神を信じるとか、宇宙と一体になるとか、色々ありますが、私の立場から言いたいのは、冒頭に述べた集合的無意識へのアクセスです。


私たちの源泉、集合的無意識

集合的無意識は、カール・グスタフ・ユングが提唱した、私たちの意識の下に眠っている無意識のさらに下にあって、全ての人類が共有している精神のパートのことです。
私たち個人は、一見して別個であるように見えますが、実際は土台の部分で繋がっているとユングは主張しました。
私たちが、自身の意識や無意識で物事を処理すると、やはり不幸や理不尽を受け入れられません。
しかし、集合的無意識で物事を処理できれば、これらを受け入れることができるようになります。
なぜなら、集合的無意識は人類全体の意思であり、人類全体から見た個人としての自分を俯瞰する事ができるため、何が起こっていてもその必要性を直感的に理解できるようになります。
ちょうど、チェスや将棋、大軍を動かす戦争ゲームをしている感覚です。
プレイヤーである私たちの視点からは、一個一個のコマが何を考えているかを理解する必要はありません。
時にはどれかを囮に使うこともあるでしょうが、囮のコマを取られることよりも、それによってもたらされる勝利の方が圧倒的に大切だと理解できますし、だからこそ囮にされるコマに感情移入などしません。
これと同じことが、自身の人生にも言えるようになります。
例え自身が王将ではなく、歩であったとして、勝利のための犠牲になる運命だとしても、それを受け入れられるようになります。
何故ならその時の私たちの心はコマではなく、それを動かすプレイヤーだからです。


今すぐ解決したいのに

物事は全て必要なタイミングに必要な意味を持って現れる。
でもそれは私たち個人のためのタイミングじゃないし、私たち個人のための意味じゃありません。
考えてみれば当たり前です。
地球や太陽が私たちのために存在しているわけじゃないのは明白です。
私たちは火を手なずけて、科学の力で自然を淘汰しまくったので、ついつい全てが自分たちのために存在していると勘違いしてしまうのですが、残念ながら全てではありません。
というか、ほとんどの事は私たちのためには存在していません。
私たちの悲しみも苦しみも、私たち自身に対しては何の意味もないのです。
私が病気になったのも、あなたが障害を持っているのも、私のためじゃないし、あなたの為でもない。
もしそこに軽率に意味を見出した気になったのだとしたら、それは合理化という防衛機制です。
私たちは失敗から学ばないし、苦労が育ててくれるわけでもない。
それでも、人類全体として、或いは地球、或いは宇宙全体としてそれは確かに必要なのです。
イジメも、搾取も、株の暴落も、経済の破綻も、戦争も全部私たちにとって必要だから起こります。
自然災害だってそうです。台風も津波も地震も、私たちのためではないにしても、地球に必要なメカニズムとして、確かに起こります。
そしてそれらは常に個人の手を離れて、起こったら最後、私たちがどんなに頑張っても、沈静化するには幾分かの時間を要し、確実な苦しみがそこに現れます。
この事実を心身の全てで理解できれば、確かに救われます。
これを仏教では悟りというんでしょうし、
スピリチュアルでは5次元というのでしょう。
この状態になれば、死ぬ直前も心穏やかに死ねますね。
残念ながら、悟りを開いても5次元に行っても死そのものや、物事そのものを回避する力は与えられません。
悟れば、超人的なパワーが宿って欲しいものですが、私の知る限り、そんな教えはありません。神や仏は常に私たち人間と一線を画す存在です。
しかし、別に超人になれなくても、物事との向き合い方が変わります。それも大きく。
更にいい事には、この事実を理解する=集合的無意識へのアクセスは、私たち自身に普遍的な価値を提供してくれます。
自信なんてもう必要なくなるのです。
何故なら、どんな状態であれ、自分が存在しているだけでこの世界の重要なパートを担っている事に気付くことができるからです。
頭が悪かろうが、体が弱かろうが、貧乏だろうが、仕事ができなかろうが全くもって関係ありません。
その役割を担っていることが使命であり、唯一の価値だから、それ以外の事は認知の歪みとして処理することができるようになります。
この世界の主人公はどこまでも自分であり、それがどんな役で、どんなストーリーだとしても、主人公を演じ切ろうと心の底から決意できるようになるのです。


どうすれば幸せに生きれるのか

集合的無意識にアクセスして、以上の事を理解するために、自己の無意識を深く掘っていく必要があります。
仏教ではこれを修行といいますね。
とはいえ、無意識は自覚できないからこそ無意識なので、先ず最初にやる事は、起こっている全ての事は、自身の心から広がっているという事実を理解する事です。
ムカつく上司がムカつくのは、その上司が悪いからじゃありません。あなたの心の抑圧された部分がその上司に投影されているからです。
つまりムカつくのは、あなた自身の責任であり、それを理解しなければ、たとえその上司から逃げても、また同じような人が目の前に現れます。
目の前に起こる理不尽が何故起きるのかではなく、それをあなたがどう感じているのかに今一度注意を向けましょう。
私もあなたも常に世界とつながっています。
私たちがそれを認めさえすれば、世界を味方につけることができるのです。

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