ビターチョコレート

 6~7年前に、ヴァレンタインをテーマに恋愛小説を書いてみて……ありきたりなストーリーになってしまったので、いろんなところを捻りに捻った結果、わけわからんことになった小説のデータが残っていたので、載せてみる。

 最初は普通の恋愛だったはずが、「雰囲気がほんわかしていて、自分の趣味じゃない。文体を変えよう」「ハッピーエンドは自分の趣味じゃない。変えよう」「そもそも、ヴァレンタインは女の子が男にチョコを渡して……なんて常識に囚われるのは自分らしくない気がする。変えよう」「そもそも恋愛ってなんだっけ。よくわからないから、描く恋愛もわけわからんもの変えよう」とかそんな経緯でこんなんなったのを、なんとなく記憶しています。細かいことは忘れました。

 其れが、こちら↓ 誤字とかあるかもしれないけど、原文ママ


 二月のデパァトメント・ストアァにある一つのコォナァ。其処はチョコレェトの甘い香りで満たされていた。つまり、世間の宣ふところの、「ヴァレンタイン・ディ」というものに備えたフェアァが開催されているのである。僕以外の客は皆、ボォイ・フレンドや家族に渡すためのチョコレェトを物色している女性達らしかつた。少なくとも、男独りで佇む姿など、他に探すことはできなかつた。仏蘭西人と思しき名前の菓子職人がプロデュウスしたということが、全面に押し出され、大いに宣伝されている。甘い物がさほど好きでもない僕にとつては、全く知らない名ではあるが、恐らくは著名なのであろう。箱の手前に置かれた、菓子の解説の書かれたプレェトに載っている写真の中の菓子は、大変美味しそうに感じられた。さて、何故、僕がやうな男が此んな空間にゐるのかを説明しなければなるまい。手短かに言ふと、僕が此処にゐる理由は、其処らにゐる女の子達とさほど変はりない。つまり、僕も、恋をしてゐるのである。そして、世間の「ヴァレンタイン・ディ」に乗つかつて意中の者に告白をしやうといふ魂胆なのである。一時期、流行した男から女の子にチョコレェトを贈る「逆チョコ」などといふものを実行する気は全くない。此の言葉に矛盾はない。何故なら、僕の意中の人は、男なのだから。

其の相手の男は名を中井といふ。中井は中学で知り合ひ、其れ以来ずつと一緒な僕の親友にして、大学の同級生であり、大層整った顔立ちをした好青年である。僕と彼は何でも打ち明けることができる仲であって、彼に対する隠し事といへば、僕の彼への想ひだけなのである。中井に就いてもう少し詳しく述べやう。中井は文化系のサァクルに所属し、部長としての信頼もあり、成績も優秀なのだが、生活力が低く、家事の一つも碌にこなせなひ一面も持つ。僕は其の欠点も含め、彼の魅力と思つてゐる。惚れた弱みとでもいふのか、全く、莫迦莫迦しひとも感じるが、どうしやうもない感情なのである。どのやうな経緯で中井に恋を爲たか、など覚えてゐない。然し、何時しか、恋を爲てゐたのである。そして、此の想ひは武者小路実篤、或ひは田山花袋が描いたものにすら負けぬ程であるといふ自信もあつた。

そして今、僕はヴァレンタイン・ディに、世間の習慣に則り、チョコレェトを渡し、僕の有り余るラヴを中井に伝える爲の買ひ物をしやうと爲てゐるのである。ただ、どうしてもチョコレェトを買ふ度胸が出なひ。男独りで此のやうな場所にゐることも、恋する相手へ渡すといふ事実も、僕の手が箱へと伸びることを躊躇させた。もう既にどれほどの時間が経つたのであらうか、見当もつかないが、無駄な時間を過ごしてゐる自覚がある。すると、背後から僕の名を呼ぶ、女の子の聲がした。

「福田君? 此のやうな処で何を爲てゐるの?」

「ふぁえ……?」

僕は突然の事態に動転し、過去に発音した事のないやうな聲を出してしまつていた。

「ふぁえ、などといふ音を、私は初めて聴いたわ。面白ひ人ね」

言葉を続ける少女は、僕のゼミナァルの同級である、花本であつた。彼女は勉強に対する姿勢も佳く、人当たりも好ひ事から、大層真面目で素敵な印象を与へる女の子であつた。彼女が此処にゐる理由も、他の客達と同様にボォイ・フレンドへ渡すチョコレェトを買ひ求めに来たといつた所であらう。さて、僕は彼女の質問に答へねばなるまい。然し、正直に答へると、僕がホモ・セクシュアルの性質を持つといふことが発覚してしまい、恐らく様々な弊害が生じる可能性が高い。僕は其のやうな思考を一瞬の内に巡らせ、誤魔化す事に爲た。

「僕も、ふぁえ、だなんて初めて発音したよ。此処で何を爲てゐたかといふと、当然、チョコレェトを買はんと爲てゐたんだ。然し、其れはあくまで自分用のチョコレェトでね。女の子に貰ふ予定もないから、自分で有名な菓子職人の美味いチョコレェトを買つて食べてやらうといふ心算だ」

「ああ、なる程ね。ふふ、面白い事をするぢやあないの。美味しいチョコレェトが買へると好ひわね。私はもうボォイ・フレンドに渡すチョコレェトの材料を買つたし、帰るわ。其れぢやあね」

上手くいつた。さう思うと僕は安堵した。花本が帰つてから、僕は更に悩んだ。実際は十分くらひの時間なのかもしれないが、体感では何時間にも思はれる程に悩み、結局、仏蘭西人のプロデュウスと宣伝されてゐたチョコレェトを購入した。包装を爲てもらつては訝しまれると危惧し、其れは遠慮した。

 チョコレェトを購入したのは二月七日。ヴァレンタイン・ディの一週間前である。買つてからといふもの、僕は夢想に耽つてばかりゐた。どのやうなシチュエイションでチョコレェトを渡し、そして告白をしやうか。僕の告白に対する中井の回答はどのやうなものか。例へば冗談めかして渡すとしやう。さふしたら、中井はどのやうな反応を見せてくれるか。好い返事ならば、「実はおれも君の事が好きだつたのだ」などと顔を紅らめながらチョコレェトを受け取つてくれさうなものである。考えたくはないが、悪い結果ならば「すまないが、おれはホモ・セクシュアルの性質を持つてゐないのだ」と真摯な態度ではつきりと振られさうである。仮に振られたら、僕と中井はきつと、今までのやうな親友といふ関係ではゐられなくなるだらう。僕には其れが恐怖であつた。中井に嫌はれる事が恐ひ。大事な友人を失ふ事が恐ひ。恋を失ふ事が恐ひ。若し此の恋が終はり、中井と疎遠になるやうな事があれば僕は狂つてしまふと思つた。僕は中井への恋に対して、過去にない程に真剣であつた。そして、中井といふ人間を本気で愛してゐるのである。其れが許されなくなるならば、僕は狂つた挙句、慾情に溺れ、屑と呼ぶに相応しい者になつてしまふのではないか、といふ推測もあつた。然し、其れでも、僕は中井への想ひを心の中にしまつたままに爲ておくことなどできない。此れは僕のエゴイズムなのである。僕が勝手に恋を爲て、勝手に葛藤して、上手く行かなかつたら勝手に狂うだけなのである。中井が其のやうな愛の告白をされることなど望んでいるかなど考へていない。僕は、僕の恋心を満たす爲に、自身の都合だけで親友といふ関係を崩し、恋仲となるか疎遠となるかの賭けをしやうといふのである。本当に、エゴイスト甚だしい行為とは思ふが、其れでも告白を爲たひ。僕は、親友といふ関係から、大き過ぎるリスクを負つてでも、恋仲になりたひと願ふ。中井が受け容れてくれるかどうかは、中井を信じるしかなかつた。僕は告白に関する妄想を爲てゐただけだつたはずなのに、何時しか此の、中井への告白といふ行爲を分析してゐた。分析をし、自身のエゴイズムに過ぎなひ事だと再確認しながらも、やはり告白を爲たひといふ結論に至つた。僕の決意は、もはや揺るがない、確固たるものになつた。

 二月十四日、ヴァレンタイン・ディ当日が来た。既に大学は春休みに入つてゐるので、中井と二人きりで空オオケストラァにでも行かうといふ事になつてゐた。中井に合流すると、僕の心臓が高鳴つた。其処には先日までの恐怖や不安は感じられなかつた。そして、二人の親友としての最後の時間は楽しひまま過ぎていつた。空オオケストラァで三時間程、平生のやうにお互いの好きな曲を歌ひ、もう一人は聴きながら曲を選ぶといふ、落ち着きつつも盛り上がる空間。其れが心地好かつた。空オオケストラァから出ると、公園へ向かひ、靑く塗られたベンチに腰掛けた。少しの間、沈黙が空間を彩つた。周りには人が、少なくなひ程度にはゐた。其の中には恋人同士であらう男女の姿が際立つてゐた。僕もあの中に混じる事が出来るのであらうか、などと考えつつ、遂に告白をしやうといふ決心がついた。

「中井、僕は君の事を親友だと思つてゐる。そして、君に対して、何一つ隠し事をしてゐないと言つてゐた。しかし、本当は一つだけ、隠し事を爲てゐたのだ。其の事を、是非君に云ひたい」

中井は驚いたやうな表情を一瞬見せ、そして大きく溜息を爲てから答へた。

「さうか、実はな、福田。おれも一つだけ、君に隠し事を爲てゐたのだ。何時、其れを云ひ出さうか迷つてゐる内に、時間が経つてしまつた。おれから先に、其の隠し事を云つても構わないかな」

中井の言葉に僕は期待した。僕の持つ「隠し事」とは、当然、中井に恋を爲てゐるといふ事である。其れならば、中井の「隠し事」も、若しかしたら僕の事を……等と考えるのも自然といふものであらう。僕は愈愈、緊張感が最大限にまで高められた。そして僕は首を縦に振ると、中井の言葉を聴いた。いや、聴いてしまつた。

「ぢやあ、云ふぞ。実はな、おれは、ホモ・セクシュアルでな。そして、覚えてゐるかな。高校の時の同級だつた、村川と恋人関係なのだ。今まで黙つてゐて済まない。何時かは云ふ心算だつたのだ」

「……ふぁえ?」

僕は復た、あの謎の聲を発してゐた。村川とは、中井の云つたやうに、高校の時の同級であり、現在は自動車工として働いてゐる、所謂「いい男」である。其のやうな村川と、中井が既に付き合つてゐる。其のやうに聴こゑた中井の言葉を認めたくはなかつた。已んぬるかな! しかし、僕は不思議な程に冷静であり、どのやうな状況下に自身が置かれてゐるのか、理解ができてしまつた。僕の恋は、告白の目前にして、終わつた。

「ああ、おれは此の事を君に伝へる事ができて満足だ。君なら受け容れてくれると信じてゐたが、どうしても云ひ出せなかつた事が心のしこりとなつてゐたのだ。ところで、福田。君の隠し事を教へてくれなひかな」

「ゑ、ああ、さうだな。其れでは僕の隠し事を云ふよ。実は、僕は君がホモ・セクシュアルであるといふ事に気付いてゐたのだよ。村川と付き合つてゐるとは予想出来なかつたから、少し驚いてしまつたがね。此のチョコレェトは、義理チョコとして渡さうと思つてゐたが、恋人がゐるといふのなら、遠慮しやう。此れは、僕が自分で食べるよ」

「さうだつたのか! いやはや、やはり君に隠し事は出来ないやうだ。流石は親友といつた処か。チョコレェトならおれは喜んで貰ふのだがな。村川は仕事が忙しくて今日は逢へないし、別に浮気といふわけでもなからう」

「いいや、持つて帰つて僕が食べる」

僕は心なしか、早口になつてゐた。そして、中井の引き止める聲も聴かずに早々と帰宅した。

 帰宅した僕は狂つてはいなかつた。只管に呆然と爲てゐた。何も考へる事が出来なかつた。しかし、狂つてゐなかつたのである! あれ程に愛してゐる中井に既に恋人がゐた。つまり、僕は失恋を爲た。其れなのに、狂つてゐない。其れが僕には納得出来なかつた。此のまま狂はずにゐたら、僕の想いが其れまでのものであつたかのやうではないか! 其のやうなはずがない! さう考へると、僕は是が非でも狂はなければなるまい、と思つた。僕は先ず、想ひ出の処分をしやうと考へた。本来なら中井に渡す心算であつたチョコレェト。此の存在を消す必要がある。他に中井を彷彿とさせるものはないか、と部屋を見回すと、高校時代のクラスの集合写真を見付ける事が出来た。また、中井に薦められて購入した漫画本や、一緒にソフト・テニスを爲た軟球もあつた。其処で或る事を閃いた。僕はすぐに台所に向かひ、鍋に水を入れて火をかけた。鍋の中の水が熱される間に、漫画本と写真を細かく千切り、軟球を鋏で刻んだ。そして、チョコレェトを金槌で叩き砕いた。

「此のくらひか」

さう呟くと、僕は其れらを全て湯煎にかけた。仏蘭西人の菓子職人が丹精込めて作つたチョコレェトは今や、大量の紙と護謨との混合物の中の一つのエレメントでしかなくなつた。湯煎が終はると、固める作業に入らうと爲た。しかし、固まるまで冷凍庫に入れて待つといふ手間が非常に面倒に感じられた。其処で僕は、手取り早くドライ・アイスをぶち撒けたのである。此れで、一瞬で凍り、時間の短縮が出来た。僕は其の時間の短縮には大層満足した。

「此のチョコレェトを処分してしまへば、きつと僕は狂ふ事が出来るだらう」

僕には其の理論への根拠など必要なかつた。ただ、狂ふ事が出来る気が爲たのである。早速僕は、其のチョコレェトに口をつけた。なんとも、反吐が出さうな味である。一口、また一口と運ぶ度に嗚咽が僕を襲ふ。然し、其れも慣れが来ると、少しずつ美味しく感じられるやうになつた。

「流石は高名らしひ仏蘭西の職人の味だな。中井には勿体ないのではないか」

チョコレェトを食べ終はる頃には、辺りに血だまりが出来てゐた。独語をしながら、僕の聲がだいぶ掠れてゐる事に気付いたが、大した問題でもなからう、と思つた。そして、大変な事を思い出した。

「僕は中井との想ひ出を処分したが、肝心の中井自身を処分してゐないではないか。其れを処分しなければ、僕は狂ふ事が出来なひに違ひない。さうだ、もう少しだ。中井を、いや、中井と村川を処分すれば、僕は漸く狂ふ事が出来るのだ。そして、僕が心から中井を愛してゐた事が証明されるのだ」

掠れ切つて、もはや聲にならなひ聲でさう云ふと、僕は再び台所へ向かひ、包丁を取り出し、中井の家へと意気揚々と足を進めた。

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