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試し行為は、「愛」の鎖。

 「部活を辞めないと学費を払わない」と言ってみたり、実際に溜めておいた生活費を全額引き落としたり、突然離縁届を送ってきたり、私の勤め先の上司に電話をかけてきて私に実家に帰るように言ってくれるように頼んだり、お継母さんと父が、私に行っていた行為は、いつもとにかく激しくて強烈だった。私は、毎回そういった彼らの行動に振り回された。

 私は、彼らのそういった行為の意味をずっと「私の不出来に対する罰」「強すぎる親の愛」と捉えていた。だから「なんてことするんだ」「ひどい親だ」と表面上は彼らの行為を否定しながらも、「やっぱり私が悪いことをしたから」という葛藤があった。「でもやっぱりひどい」そうやってぐるぐると堂々巡りしながらずっと罪悪感を引きずって生きてきた。あれから20年近く経った今、機能不全家庭で育って生きづらさを抱える人たちが行く自助グループへ通う中で「試し行為」という言葉を知った。

 「試し行為」とは、「今すぐ来ないと死んでやる!」とか「これをやってくれないならもう別れる!」などと相手にショックを与える目的で相手がショックに思うことを引き合いに出して、相手の関心を強烈に自分に向けさせ、自分の希望通りの行動を引き出す行為だ。または、相手から相手の大切なものを取り上げたり、傷つくようなことを言っても相手が自分から離れない様子を観察することで相手の自分に対する愛情がどれくらいのものなのかを確認する行為だ。

 「あぁ、それだ」とはっとした。二人の行っていたあの行為は、「試し行為」だったんだなとようやく腑に落ちた。彼らは私の彼らへの愛を私を試すことで確認していたのだ。彼らにとっての愛は、支配と服従。究極的には、自分たちの「愛」の対象者が彼らを捨てないということを確認する行為だったのだ。

彼らは、私が自分以外のことに夢中になると「捨てられる」と感じた。そして私が彼らの「試し行為」に従い好きなことを手放すのを見届けることで「愛」を確認していたのだ。私が苦しそうにすればするほど彼らに対する「愛」は確かなものと感じられたのだろう。彼らにとって「愛」とは、「穏やかで安らかな安心できる日々を毎日積み重ねること」ではなく、「愛情の対象が自分を絶対に裏切らないかどうかを日常的に相手にショックを与えることで試すこと」だったのだ。そんな彼らは、「安心」をベースに生きてはいない。「捨てられる」をベースに生きている。だから先に相手に「捨てられる」恐怖を味あわせることで自分を捨てないように、彼らなりの「愛」の鎖で繋ごうとしたのだ。

「なんでそんなことするの?」「私が悪い子だったから」と思っていた親の行為の理由の謎が、また一つ解けた。こうして私は、少しづつ回復し、成長していくのだ。少しづつ。

 


 


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