熱力学不確定性関係のざっくりオーバービュー(学部生向け)

近年ゆらぎの熱力学という分野が急速に発展しており、その中で熱力学不確定性関係(Thermodynamic Uncertainty Relation: TUR)という不等式が登場しました。2015年に初めて提案・予想がなされ、その後、証明をしようとする論文やさらなる拡張を目指した研究、統一的な理解を試みた研究、応用的な研究など数多くの論文が出版されてきました。しかし、その先行研究の多さゆえに、これから研究を始めてみたいと思う学部生の方にとっては、どの論文にあたるべきなのか混乱を与える状況ではないかと思います。

この記事ではTURとその応用的な論文の一部をまとめました。数が多すぎるのでこの分野の論文を全て列挙することはできませんでしたが、研究を始めるにあたって何かの参考になれば幸いです。

TURとは何か

いろんなバージョンがあるので、一言で正確に説明することは難しいですが、ざっくりと言えば確率的に時間発展する系において任意の物理量の相対揺らぎ(分散÷平均の2乗)と生成されたエントロピーの間に以下のような不等式が成り立つと言われています。(※どのような場合に成り立つのかはそれだけで研究テーマになっているのでここでは省略しますが、かなり普遍的に成り立つことがここまでの研究で分かってきています。)

相対揺らぎ × エントロピー生成 $${\geq 2 k_{\rm B}}$$  

ここで$${k_{\rm B}}$$はボルツマン定数です。 この不等式の解釈としては、「確率的な系において、(位置などの)物理量の揺らぎを一定以上小さくするためには、より多くのエントロピーを生成する必要がある」と言えます。特に定常状態ではエントロピー生成は散逸したエネルギーそのものとみることができるので、「より多くエネルギーを消費すると精度が向上する」とも解釈することができます。

原論文

一番最初に予想・提案がなされた論文です。簡単なマルコフジャンプ過程で記述される生化学反応を対象とした研究から始まりました。簡単な式変形で導出されているようにみえますが、この不等式は熱力学第二法則よりもタイトな不等式であり、学部で習うようなマクロな熱力学だけでは知り得ないものです。

また、以下の動画で筆頭著者による解説を見ることができます。

上記の論文はマルコフジャンプ過程についての結果でしたが、その後オーバーダンプランジュバン系についても同様の不等式が成り立つことが示されました。(慣性項が無視できないアンダーダンプ系では成り立たないので注意が必要です。)

証明

大偏差原理を用いた証明

ランジュバン系について、キュムラント母関数について成り立つ不等式からの導出

Current fluctuations and transport efficiency for general Langevin systems
Andreas Dechant and Shin-ichi Sasa

https://iopscience.iop.org/article/10.1088/1742-5468/aac91a/meta

ランジュバン系について、情報理論で見かけるクラメール・ラオ不等式からの導出


不等式の別の解釈1:効率とパワーのトレードオフ

上記のTURの応用として、不等式を変形することで異なる2つの熱浴に接する熱機関における熱効率とパワーの間のトレードオフ不等式を導出することができます。(ただ、これは応用的な研究というより原論文とほぼ同時期に独立に発見されたものとみるべきです。)

論文の内容について、著者のお一人である田崎晴明先生の解説を以下の動画で見ることができます。


不等式の別の解釈2:速度限界

別な応用として、上記の不等式から確率分布が変化するのにかかる時間とエントロピー生成の間のトレードオフ不等式も導出されています。


Kinetic Uncertainty Relation: KUR

実はTURはエントロピー生成の代わりにアクティビティーと呼ばれる量で書かれることもあります。この場合の不等式はTURとは呼ばずにKinetic Uncertainty Relation: KURと呼ばれています。

Kinetic Uncertainty Relation
Ivan Di Terlizzi and Marco Baiesi

https://iopscience.iop.org/article/10.1088/1751-8121/aaee34/meta

TURとKUR、どちらがよりタイトな不等式なのかは状況によって変わります。以下の論文ではこれらが統一的にまとめられています。

Unified thermodynamic-kinetic uncertainty relation
Van Tuan Vo, Tan Van Vu, and Yoshihiko Hasegawa

https://iopscience.iop.org/article/10.1088/1751-8121/ac9099/meta

また、以下の論文にもこれまでの結果が分かりやすくまとめられています。


日本語の書籍としてはこれまでに以下の2冊が出版されています。以下は初学者の方にオススメです。

非平衡統計力学: ゆらぎの熱力学から情報熱力学まで (基本法則から読み解く物理学最前線 28) 

以下はある程度学んだ方にオススメです。

ゆらぐ系の熱力学: 非平衡統計力学の発展 (SGCライブラリ 182) 


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