#1 占有でなければ保護されない?
ある一つの判例
木庭先生の『誰のために法は生まれた』(朝日出版社)では,第5回,日本社会を論じた最後の章で,ある一つの「判例」が紹介されています.
それは「自衛官合祀訴訟」と言われる事件の判決です.概要は,「殉職した自衛官を山口県護国神社に合祀した行為が、信教の自由を侵害され、精神の自由を害されたとして遺族の女性が、合祀の取消し請求を求めた訴訟。」(Wikipedia)とされています.
訴えた側の「原告」である遺族の女性は,交通事故で亡くなった自衛官の奥さんです.それに対して,訴えられた「被告」は,山口県の隊友会という社団法人(自衛隊の協力団体)と自衛隊地方連絡部(地連)です.
亡くなった自衛官は,護国神社(神社神道)に一緒にお祀り(合祀)されることになるのですが,奥さんは,キリスト教の信仰をお持ちでした.原告(奥さん)は,亡き夫が合祀されるという通知を受け,抗議しましたが,受け入れられませんでした.
そこで,原告は,合祀手続きの取消を請求したのですが,残念ながら最高裁の判決では,合祀の取消しは認められませんでした.
「占有」を見つけた?
木庭先生は,この自衛官合祀訴訟に,日本社会のいくつかの問題点があぶりだされているとみています.
隊友会(退職した自衛官たちを構成員とする団体)と自衛隊(国の組織)とが,「グルになって」動いている.それは不明朗な集団,いわゆる「徒党」ではないか.
亡くなった自衛官の父親を中心とする「家族会議」では,妻以外の同意を取り付けて,合祀の申請を正当化しようとする.親族という集団が個人を取り囲んでいるのではないか.
「徒党」がうごめいていたり,「親族」が個人の意向を無視する.一人の人として尊重されていない.そして,裏で手を回したり,集まって圧力をかける.いかにも日本社会の病理のようにみえます.
原告はたった一人で,故人をひっそりと偲びたい配偶者である一方で,被告は何かつながっていて,集団をなしている.さらには国家権力が片棒を担いでいる.
個人対巨大集団という構図が透けてみえる.そのようなシチュエーションでは,原告(妻)の側が「占有」を持っている.つまり,ある対象に対して,明確で堅固な関係を持っていると判断する.そうした場合,判決の結論と異なり,原告を勝たせるべき,ということになる.
アンティゴネーの場合
ここではまず,ギリシャ悲劇の名作,『アンティゴネー』を見てみましょう.
『笑うケースメソッドⅡ現代日本公法の基礎を問う』(勁草書房,2017年.以下『ケースメソッド公法』)でも,「自衛隊合祀訴訟」の件は取り上げられており,『アンティゴネー』に言及されています.むしろ,『アンティゴネー』を通じてこの事件をみることが,ほとんど必須とされています.
『アンティゴネー』は,ギリシャの悲劇作家,ソフォクレス(ソポクレス)の作品ですが,その中の登場人物であるアンティゴネーには,二人の兄がいて,そのうちの一人,兄ポリュネイケースは,祖国を裏切って敵方についてテーバイに攻め寄せ,もう一人の兄,エテオクレースと相討ちとなり,戦死します.
アンティゴネーは,兄ポリュネイケースを埋葬を望むものの,叔父であり王のクレオンは,裏切り者であるポリュネイケースの埋葬を禁じます.それにも関わらず,アンティゴネーは埋葬を行います.アンティゴネーは地下に幽閉され,その間に自害してしまいます.
もちろん,アンティゴネーは,命がけで王による埋葬禁止という掟,政治的決定に背く個人です.自衛官合祀訴訟で,原告は,自衛隊地方連絡部(地連)という国の組織と対峙してはいますが,アンティゴネーとまでは言えないかもしれません(『ケースメソッド公法』p.161).また舞台は裁判所であって,政治の場ではありません.
それでは,なぜ『アンティゴネー』というプリズムを通じて事件を見ることを,木庭先生は重要と考えるのでしょうか.
デモクラシーと法の間
アンティゴネーは,政治的決定に対立しました.そして,政治的な決定において尊重されるべき「最後の一人」がいること,それが「デモクラシー」の概念であるというのが,木庭先生の主張です.
さらに,「デモクラシー」が保障しようとした価値と「法」が保障しようとするものの価値は,共通はするものの,法においては,より技術的な概念を用いて,結論を導かなければなりません.そこに,法が固有の価値があります.
アンティゴネーが「最後の一人」であるように,この事件の原告も,あるいは「最後の一人」かもしれません.しかし,そのことは,特別な概念操作を通じて組み立てる必要があります.
このままでは「法」の問題にはならないので,ある適切な対象を見つけてこなければなりません.ある対象があって,その対象との間に一義的で明瞭で固い関係があるときに,「占有」がある,ということになり,いわば扉が動くこととなります.この事件でいうと,それは何か.
『誰のために法は生まれた』では,その点はあまり議論はされていません.高校生向けの特別授業であり,時間も限られていたことから,そうした対象はある,という前提で,その対象を取り巻く構図(集団対個人)に関する議論が中心となっています.
葬送儀礼の一義性
そのような対象とは,まだにこの事件で問題となった行為であり,この事件の通称にも含まれていますが,「合祀」です.すでに述べた通り,護国神社に一緒にお祀りする行為のことを言います(正確には,事件では「合祀申請」が問題となっています).
『ケースメソッド公法』では,「葬送儀礼」と呼ばれています.「葬送儀礼」とは,死者を葬る一連の儀礼のことです。葬送儀礼を略して葬儀と呼ぶのが一般的です(https://en-park.net/words)。いわゆる「お葬式」ですが,ここでは,参拝の対象として「お祀り」することも含めて問題となっています.
この「葬送儀礼」との関係で,原告と被告のどちらが「個別的で」「固い関係」をもっているのか.そもそも,そうした関係について論じる前提となるのが,「葬送儀礼」の単一性です.
言い換えると,「葬送儀礼」が単一でなければ,原告である奥さんが,キリスト教の方式に則ってお祀りしようとも,隊友会や自衛隊が,神式(護国神社)でお祀りしようとも,そこには衝突はなく,少なくとも法的な問題(裁判)にはならない.
つまり,占有の問題とするには,この「葬送儀礼」が単一である必要がある.お葬式,お祀りは,単一でなければならない.複数行われてはいけない.
埋葬であれば,対象となる亡骸(なきがら)はただ一つであり,単一性には疑問の余地はない.しかし,葬送儀礼は,亡骸とは直接は関係ない.アンティゴネーのケースとは異なり,単一性の論証が必要となります.
苦心の跡がうかがわれる論証
占有がある,といえるためには,その対象は,単一でなければならない.そのために『ケースメソッド公法』では,苦心の跡がうかがわれる論証が行われています.
それが成功しているか否かは,実際に皆さんが『ケースメソッド公法』をお読みになって,ご自分で判断するしかないと思います.
ちなみに「笑うケースメソッド」シリーズでは,老教授(木庭先生のこと)とゼミ生たちが問答を進めていく形式となっています.おそらく,木庭先生の大学の授業での経験をもとにはしていますが,仮想の教授と学生たちが議論を交わす対話形式の本です.
そして,老教授(木庭先生)は「葬送儀礼」の専門家であると自称しています.もちろん,葬儀屋という意味ではなく,学術的な意味であり,実際,古代ローマにおけるネクロポリス(埋葬場所,墓地)について論文も書かれているようです.
人が亡くなる.身体は単一で亡骸(なきがら)も単一である.では,死者はどうか.死者は実際にもうそこにいないので,死者,あるいは死者との関係は,一種の記号になる(遺影や位牌を思い浮かべてください).そして,社会の構成員が亡くなった後には,「社会再編の再構成」が行われる.死者と関わる儀式(記号行為)は社会の再構成と不可分であり,そこに一義性がなければならない.儀礼的空間は複数あってはならない.「ボールに二つ入ったのではサッカーができない」(『ケースメソッド公法』,196頁).
宗教は葬送儀礼と切っても切り離せない.そして,神々というのは,白と黒のように,生死や彼我(彼岸と此岸)を分かつ・司る存在であるから,はっきりと区切られて(分節されて)いなければならない.単一性が要求される.一義的でなければならない.
政治(あるいはそれを高度にしたという)デモクラシーの世界とは少し違ったロジックで,当事者たちのうち,一方がより固い,明確な関係を持っている,として「白黒」つけなければならない.
そのために行われている,以上のような「葬送儀礼」の一義性という論証は,線の細い議論なのか,確固とした反論を許さない議論なのか.
この事件を,もし占有の問題として捉えるならば,一義性を積極的に肯定しなければならない.議論の土俵に上がるための,大変重要な前提問題であるのは確かです.
ただ,仮に故人を偲ぶ原告の儀礼空間が,護国神社における合祀と同じレイヤーで単一性を争うとすると,もし原告(妻)が敗れたならば,私的な儀礼空間が排除されなければならないのか,護国神社における合祀と対置することは諸刃の剣とならないのか,といった疑問は抱くところです.
たった一人の原告?
この事件を「占有」の問題として解決するには,上の述べた以外にも,いくつものハードルがあります.
事件は生き物でもあります.事実関係を見ていくと,そこには,占有で一刀両断することに迷いを感じる,いくつかの要素があります.
実は『誰のために法が生まれた』の中で,高校生たちは,事件の事実関係について,非常に鋭い指摘をしています.占有という観点からこの事件を読むことの意義を失わせかねない,素朴で自由な意見です.
編集の妙といいますが,読んでいると読み落としてしまいそうになりますが,それは『誰のために法が生まれた』を見ていただくとして,今回のnoteでは,『ケースメソッド公法』がこの事件を取り上げた最後の部分でさりげなく触れられている点を取り上げて,終わりにしたいと思います.
「笑うケースメソッド」シリーズは,すでに述べた通り,老教授とゼミ生が意見を交わす形式の本となっていますが,登場人物の一人,「風間君」は,次のように言っています.
「原告の唯一の弱点は,日本基督教団が支援に動いたところだと思う.これがなければ完全に,何重もの複雑さの巨大集団対個人だった.後者の圧勝.」
このことは,何を意味するのでしょうか.
ここで言及されている日本基督教団とは,日本国内のプロテスタント33教派が「合同」して成立した合同教会であるとされています(Wikipedia).つまりは集団であって,それもかなりの人員,組織を有するものと考えられます.
その日本基督教団が,支援に動いたことが,原告の弱点だとされています.原告はキリスト教徒であり,原告の側が支援を求めたのか,日本基督教団の側が自主的に動いたのか,定かではありませんが,普通に考えると,それは弱点には思えません.
人は一人で,大きな組織,集団と闘うことー闘い続けることーはできるでしょうか.必ずしも強い人ばかりではないので,孤独な闘いを続けることが難しいことがあります.そして,同志や仲間を探そうとします.そのことが(少なくともその助けを求める先が集団であれば)弱点だというのです.
「占有」という構図をあぶりだすためには,集団対個人でなければならない.「最後の一人」でなければならない.下手に別の集団が支えたり,サポートしていては,「占有」という構図が台無しになりかねない.そのようなニュアンスが感じられます.
例えば,仮に原告が日本基督教団の働きかけがあったらどうなるでしょう.『誰のために法が生まれた』では,父親に対して,自衛隊側の働きかけがあったことが問題視されています.
また,原告が,一人静謐のうちに故人を偲ぶ,というよりも,日本基督教団での「合祀」に相当することを求めていたらどうなっていたでしょう.仮にそれが,隊友会の合祀申請の取消しの契機として,事実関係の中に現れていたとしたら.
それはただの弱点ではなく,致命的な弱点となり,原告もまた集団であって,組織であり,占有を保護するに値しない,という結論になっていた可能性があります.集団対集団という,占有の俎上にも上らない構図にもなりかねません.
なお,「風間君」は,「序」において,「法学的思考をマスターしており,かつ詰めた法律構成を愛する.老教授の授業の常連でもあり,したがって彼も占有を理解している.また必然的にローマ史に一定の知見を有する.」という設定となっています.
多くのゼミ生が,老教授の意見を代弁していると思える箇所がありますが,ここでの発言は,風間君の立ち位置から言っても,老教授の見解と考えて差し支えないでしょう.
まとめ
取り留めのない,老教授の授業に参加する中でも,あまり出来の良くない設定のゼミ生のような文章になってしまいました.
この事件で,最高裁判所は,原告の請求を容れませんでした(下級審では,政教分離違反を理由として,原告勝訴).「信教の自由」「政教分離」を定めている憲法に持つ私たちにとって,課題として残されている気がします.
では,占有というアプローチが優れているかというと,上記の通り,事実としていくつかの原告に有利な前提があり,かろうじて占有という筋が生きる余地がありましたが,それらが一つでも欠けていた場合には,議論の俎上にすら上がらない可能性もありました.
また,理論の上でも,占有の対象となる儀礼の一義性が,固い根拠をもって論証されているかというと,なお検証の余地があるように思われます.
一つ言えるのは,占有からのアプローチでは,原告の信教の自由は,ほとんど問題とされないことです.『ケースメソッド公法』でも,信教の自由ではなく,「精神の自由」として,この判決が取り上げられています.
信教の自由には,独自の価値が置かれていないようにもみえる.そのことは,実は偶然ではなく,ギリシャ・ローマからアプローチする際には,必然といえる問題でもあること.それはまた別の記事で取り上げたいと思います.
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