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水筒カバーは洗うのか

片付けるという行為は、元あった場所に戻せばいいからまだいい。
問題は清潔を保つ、こちらの方だ。

ほとんどすべてのものが汚れるという命題を背負っている。
汚れていくのは仕方がないのだ。
だから人は磨いたり洗ったりするのだけれど、困ったことにその塩梅が私にはまったく分からない。
だいたい、うっすらと日に日に汚れていくものをある日どこかのタイミングで「汚い!」と認定してきれいにする、というのが難解だ。
いつそれは「汚い!」になったのか、昨日なのか、一昨日なのか、それとも一秒前なのか、私には分からない。

さらに、汚れを黙認していいものと、きれいにするべきもの、の棲み分けがどうにもできない。
これは汚れても仕方ない、と受け入れるべきものなのか、それとも洗ってきれいにするべきものなのか、が分からない。

先日のこと、長女の水筒カバーがいつのまにか随分と薄汚れていることにはたと気が付いた。
もとはパステルグリーンだったその水筒カバーは気が付くと薄茶色の汚れが全面的に付着していたのだ。
肩ベルトの取り外しもできないし、底部はプラスチックだ。
これはさすがに洗えないよねぇ、と新しい水筒カバーをメーカーから取り寄せる気でいたのだけど、
「いや、でも捨てるくらいなら思い切って洗ってみてもいいんじゃないの」とたらいにお湯と洗剤を入れて少し擦ると、ちょっと引くぐらいお湯がアレな感じになった。まぁ、アレだ。直視できないくらいにアレだった。
アレ感に少し慣れると今度はなんだかすがすがしくなった。
みるみるうちにパステルグリーンを取り戻す水筒カバーが快感だった。
お湯を丁寧に切って、ピンチハンガーにつるすと、懐かしい新品同様の姿が蘇った。
長女と一緒に「きれいだね。きれいだね」と感激しあった。

数日後、あまりに嬉しくてそのことを友達に話したら驚きの返事が返ってきた。

「え、毎週末に洗濯機で洗ってるよ」

まじで?
本気で言ってる?

「がらんがらん音が鳴るけどね。ネットに入れて洗うよ」

驚愕した。
洗濯機に水筒カバーを放り込む大胆さもそうだし、水筒カバーを「洗う」という発想を持っていたことに驚いた。
私は「洗う」ということさえ思いつかずに生きていた。
そのことに気付いた瞬間を例えるならばほとんど新大陸発見くらいだ。
つまり、ありえないはずの、まったく存在しないものを大発見したのだ。
ゼロが有を産んだ瞬間だった。

この衝撃を私は数日間引きずった。
そして、会う人会う人に、水筒カバー洗ったことありますか?と訊いて回った。
するとかなりの割合で「洗ってる」と答えるのだ。みんなしてなに。
洗濯機に入れる人もいれば、手洗いする人など様々で、もちろん中には私のように「洗えるの?!これ?!」と言う人もいたけど(一生友達)。

そして、その行動はさらなる衝撃を呼んできた。
洗う、洗わないの議論の先に「では、巾着はどうしているのか」が話題にのぼったのだ。
我が家の子どもたちが通う園では園で着替える体操服を持たせるのだけど、その体操服を入れる「体操服袋」というのがある。
それを毎日洗う人たちがいることを知ってしまった。

「え、それってつまり2枚持ってるの…」

動揺しかない。

「うん、持ってるよ。入園のしおりに書いてなかったっけ?」

書いていない書いていない、絶対に書いていない。

私の隣にいた人が「へぇ~」と驚いていたので、一生友達かな、と思ったけれど、

「週末しか洗ってないわ~」

と言った。

だから、しつこいようだけれど、洗うという発想はどこからやってくるのか。
体操服は分かる。
汗もかくし、分かりやすく汚れもする。
「清潔なものを毎日持たせてください」って園のしおりにも書いてある。
でも、誰も「袋を清潔に」なんて言ってないし書いてもない、袋ってそもそも汚れているのか。
というか、素人が急ごしらえでこしらえた縫製の甘い巾着を毎日洗濯機にかけたらいったいどうなるか、想像だけでじゅうぶん恐ろしい。
巾着をつくるのは入園準備のときだけと決めている。
彼らは口々に、コップおはし袋も毎日、または週末に洗うと言った。

私の目には巾着たちはちっとも汚れていない。
むしろ汚れていたからどうなの、とすら思う。
おはしはおはしケースに入っているし、汚れるのってそもそも外側でしょうが。内部はきれいでしょうが。
ていうか汚いってなに、きれいってなに。
分からないことが多すぎる。

きれいとか汚いとか、みんないったいどこで教わったんだろうか。
私は衛生観念がおかしいのだろうか。

はっきりと見えないものを「ある」として対処するってものすごく高度なように思えるのだけど、みんなそのへんどうなのか結構本気で問いたい。


「巾着洗ってる?」



また読みにきてくれたらそれでもう。