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苦い花火

僕のバイト先は、ショッピングモールの2階にあるジーンズショップだ。

と、字面だけだとなんだかオシャレっぽいが、実際は片田舎の寂れた建物だし、ジーンズショップといっても隣にあるダイソーの3分の1くらいの面積の小さな店舗で、目玉商品は3着1000円の安いTシャツ。ジーンズコーナーは奥に追いやられている。

都会のイオンみたいに夜11時までスーパーが開いているなんてことはなく、良い子の小学1年生の就寝時間みたいに、8時半には律儀に閉店準備をする。

お盆のまっただ中の今日は普段にも増して客入りが悪く、ダイソーに寄ったついでに暇潰しにここに来る人たちばかりだった。ちょっと虚しいくらいに、洋服は綺麗に並んだままだ。

「人、来ないねー」

いちいち折り畳み直す必要のなさそうな洋服を手に取って、わざとゆっくり折り畳みながら長瀬さんが独り言みたいに言った。「そうですね……」とだけ返して、僕は後ろの売り場の洋服を畳んだ。

長瀬さんは大学1年生で、僕といちおうは同級生なのだが、一浪しているそうなので歳はひとつ上だ。髪を栗色に染めて両端をくるくると巻いている。真っ青なTシャツにデニムのジーンズ。

「淡路くんも、髪の毛染めてみたら?」と何度か言われたことがあるが、どうにも度胸がなくて踏み切れない。高校の頃のような厳しい校則はもうないし、バイト先のここは服装も髪型も自由なのだから、染めてもなんの問題もないのだけど。

閉店時間の9時になる15分も前に、すべての作業が終わってしまった。私服だから着替える必要もないし、カバンを持てばすぐに帰れる。だけど9時きっかりにタイムカードを打刻しないといけないため、ぽつんと空き時間ができてしまった。

「やることないねー」また長瀬さんが独り言みたいに言った。「暇ですね……」と返した。同級生とはいえひとつ年上で、少し前に20歳の誕生日を迎えたという長瀬さんは、僕にとってはなんだか大人びた存在で、どう距離を取れば良いのかよくわからない。返事も素っ気なくなってしまう。

「そういやさー……」再び、折り畳む必要のない服を折り畳み直しながら、僕ではなく服を見て長瀬さんが呟いた。

「今日、花火だよね?」

「え?あ、ああ……そうでしたっけ?」

そういえば今日は、地元の花火大会の日だった気がする。花火大会といっても何万発も打ち上げられるような派手なものではなく、地元の神社で行われている地味なものだ。露店なども出ない。小学生の頃は喜んでいたが、成長するにつれて、だんだんつまらなくなって、もう10年くらいは行っていない。大会の存在そのものを忘れていたくらいだ。

「もうそろそろ終わるよね。たぶん9時までだし」

そうか。子供の頃は夜遅くまでやっていた印象だったが、9時には終わってしまうのか。たぶん7時半とか8時から打ち上げられるだろうから、たったの1時間と少しの間だけ。

僕らがぼんやりと時給泥棒をしている間に、外では花模様が飛び交っていて、派手な祭りではないとはいえ、何人もの地元の人たちがそれを楽しんでいる。

やがて時計が9時ちょうどを差そうとする前に、長瀬さんがやっぱり独り言みたいに言った。

「今日、途中まで一緒に帰らない?」

「え?でも僕、チャリなんですけど?」

それまでの素っ気ない対応と打って代わって、僕は普段は上げないような甲高い声を上げた。動揺してしまったのだ。長瀬さんは相変わらず時計のほうを見て、「押して帰ればいいじゃん」と笑った。

ショッピングモールの裏口には、従業員専用の通用門がある。昼間は警備員の人がいるが、この時間帯には誰もいない。このモール内の店舗はほとんどが8時に閉店する。9時まで開いているのは隣のダイソーとうちのジーンズショップくらいだ。ただ、モールの入り口にある1階の吉野家だけは10時まで開いていて、建物の照明が消えてもこの吉野家のネオンだけは光り輝いている。

「吉野家、行かない?」

唐突に切り出されたので、今度は声が上ずるどころがなんの反応もできなくなってしまった。どうせ親はコンビニの夜間バイトで遅い。中学生の頃から、夜は適当にどこかで済ませてくるか、家の冷蔵庫に転がっているレンジアップを勝手に温めるのが当たり前だったので、ここで晩御飯を済ませておくのもありだ。

店に入るや否や、長瀬さんが注文したのがビールなのだから驚いた。

「吉野家ってビールあるんですね」なんとなく意外で思わず口に出したら、「モスバーガーにもあったりするよ」と返された。どっちにしろ、19歳の僕はまだ飲めないんだけど。

チーズスパイシーカレーを注文したら、「ここ牛丼屋だよ」と笑われた。「知ってますよ。カレーが好きなだけです」と返したら、爆笑された。いつも独り言みたいにしゃべる長瀬さんが、僕とちゃんと会話をしていることに、なんだか嬉しくなった。

牛皿の並盛をおつまみに、美味しそうにちびちびとビールを飲む長瀬さんを見ていると、なんだか悔しくなってきた。僕も一緒に飲みたい。

かといって、牛丼屋で食べるカレーというのがまた美味いのも事実で、がっついた犬のように一気に平らげようとしたが、途中で少し冷静になって、長瀬さんの前でこんな子供っぽい食べ方をするのは恥ずかしくてなっていて、だんだんスプーンを運ぶペースを落としてみた。

「何?お腹空いてんでしょ?飲み込んじゃいなよ?」長瀬さんがゲラゲラ笑う。「いや、急いで食べるのは身体に良くないので」その場しのぎの返答をする。

ビールをぜんぶ飲み干したところで、突然に長瀬さんは真面目な顔になり、いつもの独り言みたいな口調でこぼした。

「この前、彼氏と別れたんだ……」

僕は、どう返していいかわからなかった。

「本当は、花火大会にも一緒に行くはずだったんだ。シフトも他の人に替わってもらって」

それから長瀬さんは、別れた彼氏のことについて、たくさん僕に話した。まあ簡単にいうと浮気されて別れたらしい。恋愛経験のない僕には、彼女の気持ちの詳細はさっぱりわからないけど、とりあえずなんか寂しかったらしいことだけわかった。

そして、やっぱり長瀬さんと一緒にビールを飲めないことが悔しかった。もしかして僕は長瀬さんのことを好きになっていっているのだろうか。それさえもわからない自分の幼さが情けなかった。

吉野家を出てもしばらく、長瀬さんは僕から離れなかった。僕の自転車を勝手に押して、「もうちょい付き合ってよ」と言う。「付き合って、って、いわゆるそういうことですか?」とかいう頭の悪い質問が少しよぎったが、まあもちろんそういう意味ではないのはわかっている。

「おかわりがほしい」と、長瀬さんは途中のコンビニに立ち寄って、缶ビールと、……缶の甘酒を買ってきて「これ、私の奢りだから」と、甘酒の缶を僕に手渡した。「なんで甘酒なんですか?」と問うと、長瀬さんはちょっと意地悪な顔をして「淡路くんが飲めるお酒、それしかないじゃん」と返された。悔しい。めっちゃくちゃ悔しい。

「じゃ、乾杯しよっか?」缶ビールを空のほうへ高く掲げて、長瀬さんがそっぽを向いて言う。僕は言われた通りに甘酒の缶を持ち上げて、長瀬さんの缶ビールの横へと掲げる。コツンッ!というアルミの音がして、プシャーッ!という缶ビールの泡の音が空中に響いた。ちょっとだけ花火っぽいな、と思った。小規模すぎる花火だけど。

甘酒は、チーズスパイシーカレーを注文するような辛党の僕には甘すぎた。だけど黙っておいた。長瀬さんが喉に流し込むビールが、とてもとても美味しそうに見えた。羨ましいと言いそうになったけど、またバカにされそうなのでこれも黙っておいた。

それからしばらくして、長瀬さんはバイト先を去った。

あの夜の後も同じ時間帯のシフトに入ることは何度かあったが、まるであんな体験はなかったかのように、長瀬さんは独り言のように無難なことを呟き、僕も素っ気なく無難に返す日々が続いた。通っている大学がどこかも、なぜ一浪していたのかも、最後まで知らなかった。

あれから1年が経ち、僕は20歳になった。バイト上がりにひとりで飲む缶ビールの味は最高に美味いことを知った。そして、たぶん僕は、1年前に恋をしていて、それに気づけずに終わらせてしまったことも。モールの吉野家は、いつからか知らないけど改装中だ。こんなふうに、いろんなものが変わっていくことを知るのが、大人になるということなのだろうか。

今夜は花火大会の日だけど、去年と同じく僕は9時までジーンズショップで働いていた。お腹が空いたので、帰りにコンビニに寄って、軽いおつまみと缶ビールを買った。

あ、そういえば、僕は夏休みに入る前、思いきって茶髪にしたんだ。もし、長瀬さんにまだ彼氏がいなくて、寂しがっていたら、……いや、そんなわけないな。

缶ビールは、最高に美味くて、最高に苦かった。

サウナはたのしい。