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演技と驚き◇Wonder of Acting #26

タイトル画像:『El tres de mayo de 1808 en Madrid (マドリード、1808年5月3日)』フランシスコ・デ・ゴヤ
演技を記憶するマガジン [ February 2022 ]

00.今月の演者役名作品インデックス

安藤サクラ
長澤まさみ
ユ・アイン:テイン『声もなく』
深津絵里:雉真(大月)るい『カムカムエヴリバディ』
門脇麦:ライカ『ミステリと言う勿れ episode5:誤字による暗号』
東出昌大
竹本織太夫『加賀見山旧錦絵 長局の段』
中村梅玉:徳川綱豊『御浜御殿綱豊卿』
『JUST CLIMAX』Ongakuza Musical
『偶然と想像』

01.今月の演技をめぐる言葉

メインコンテンツです。編集人が出あった「演技についての言葉」を引用・記録しています。※引用先に画像がある場合、本文のみを引用し、リンクを張っています(ポスター・公式サイトトップ・書影など除く)。

しんしん @shinpeikakomira
安藤サクラさん 「セリフと必要動作以外は自由で大丈夫」って言われてそうな演技するから好き

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引用させていただいた皆さんありがとうございます †

02.雲水さんの今様歌舞伎旅(ときどき寄り道) 第十六回:虚実皮膜のむこうから~箕山 雲水

不意にふたつの芝居がリンクしてしまう、そんなことがあった。似たようなシチュエーションの作品というわけではない。歌舞伎のことを考えていたらミュージカルの舞台が、それも衝撃的に割り込んできたのだ。あまりの衝撃に風呂場で窒息しそうになった。溺れたわけではないけれど。

そもそも、今月は『御浜御殿綱豊卿』のことを書こうと思っていた。言わずとしれた真山青果作の傑作で『元禄忠臣蔵』の中の一作である。歌舞伎座の二月大歌舞伎の最初にかかっていて、徳川綱豊卿に中村梅玉丈、富森助右衛門に尾上松緑丈、お喜世が中村莟玉丈、新井勘解由に中村東蔵丈、そして江島に中村魁春丈という布陣。忠臣蔵だからもちろん赤穂浪士の話には違いないが、「浅野家の再興」を将軍に願い出る立場にありながら「主君の仇討ち」をさせてやりたい思いとの間で揺れる綱豊が主人公という異色の作品だ。はじめの場面に、浮草のようにふわふわと暮らす綱豊卿の姿を描き、その後の勘解由とのやりとりでその意味を明かし、これを山科で遊ぶ大石内蔵助の姿と重ねながら綱豊卿の本心と立場を示す。一番の見せ場である赤穂浪士・助右衛門との本心の探り合いの場面では、またもとの浮草のような綱豊卿に戻ってやりとりが繰り広げられ……さすが青果、と唸るしかない構成の素晴らしさに加えて、おおらかで穏やかな雰囲気の中に燃える炎と知性を潜ませた梅玉丈の芝居が見事で、こちらは息をするのも忘れて見入ってしまう。終わった頃にはすっかりマスクが水浸しになり、息の仕方も容易には思い出せず、別々に観ていた友人と「今は会えない」と連絡しあったのは笑い話。

ことに、綱豊がいう「討たせてやりたい」の台詞、たしかこれは世の中のためにもというニュアンスも含んでのものだったと思うが、この台詞にはやられた。観客の側は忠臣蔵の話はよく知っているのだ。彼らがこのあと討ち入りをし、結果どうなるか、皆よく知っている。知った上で、それが正解だったのか答えを持たぬ上で客席に座っている。その隙間を、ひとことの台詞がぶん殴ってくる。それだけではない。今、この瞬間起こっていることやうまくいっていないように感じることにまで、時代を超えて手を伸ばして心に突き刺さってくる。これは、敵わない。逃げようがないほどにこの一言が自分に刺さるのは、青果があとの時代から忠臣蔵を描いているせいなのか、梅玉丈が今を生きている人だからか、そもそもこの物語の綱豊卿を「将来起こることを知らない」という設定で観ても良いのだろうか。そんなことを考えながらシャワーを浴びていたら、急に別の作品のことが蘇って、それで窒息するほど嗚咽することになった。『JUST CLIMAX』。これも今月観た、音楽座ミュージカルの作品だ。

音楽座ミュージカルの35周年を記念して創られたこの作品は、さまざまな音楽座ミュージカルのシーンを繋ぎ合わせたオムニバスのようなミュージカルだった。それが、ひとりの女(おそらく音楽座ミュージカルをたちあげ、亡くなる直前まで作品を創り続けた相川レイ子さんのことであろうことは、前回のプログラムから容易に想像できる)の存在によってひとつの物語として紡ぎ出されていく。思い出深い場面ばかりだし、どれも印象的な音楽ばかりだからそれだけでもう泣ける。ただ、それだけの作品だとどこかで思っていた。その作品が『御浜御殿綱豊卿』のことを考えていたら突然、遅れてくる衝撃波のように全身に突き刺さってきたのだ。跳ね飛ばされないようにするだけで必死。こんな衝撃は後にも先にも体験したことがない。

ざっとした説明になるが、この作品の主人公は先述のとおり、ひとりの女である。それが、旅を続ける中でさまざまな人のさまざまな瞬間に出会っていく。時には工場で働く若い女性たちの、時には出征の、時には学生運動の…時代も場所も超えた場面を女が体験していく。やがて、自分は何のために生きているのか、という台詞のあと「自分たちを生み出してくれてありがたいと思っている」というような言葉が続いていたと思う。ここで、その女性が音楽座ミュージカルを生み出した人であろうということは明確にわかる。その人が自分の体験をミュージカルとして描いてきた、そんなお話なんだろう、と思っていた。ところが、合間合間にそれではどうしても説明のつかない場面があるのだ。現代風の黒い衣装に身を包んだ人たちの群舞の場面などまさにそれで、9.11や東日本大震災が創作に大きな影響を与えたというのはそれなりに音楽座ミュージカルファンをやっていれば理解はできるのだが、では群舞のはじめのマスクをして皆が出てくる一連の動作はなんなのか。今私たちが苦しめられているこの病気は、相川レイ子さんの存命中にはまだ形もなかったはずなのだ。それがどうしてここに出てくるのか。それが、綱豊卿のことを考えていて突然肚に落ちた。あの作品で女性が辿っていたのは、過去に自分が通った道ではない。これからの未来だ。彼女が生きていた間だけでなくその先の未来までわかった上で、それでも生きることを選ぶ。そう思うと全てに納得がいく。

女が歌う歌は、ごく短いオブリガードを除けば、『マドモアゼル・モーツァルト』の♪旅、『ホーム』の♪昇天、『21C:マドモアゼル モーツァルト』♪季節の流れ、『メトロに乗って』♪道標、そして再び『21C:マドモアゼル モーツァルト』の♪旅の5曲(最初と最後は同名の別曲)。そのどれもが、歌詞カードを読み直すと「未来をわかっている」ことを示唆している。特に♪道標など見事で「道標たどって 母さんの言う通り生きてきた でも降りてはいけない駅 降りてしまった私」「悔やまない そして今どんな未来が待っていても」これなのだ。私たちが「昔の話だ」と思って見ていた、たとえば出征の場面や学生運動の場面さえも、過去のことではなく、これから起こる未来を彼女が見ているのだとしたら。これからの未来が「どんな未来であろうが」彼女が「生きる」という選択をし続けているのだとしたら。なんという力強い作品なのだろう。なんという真理を描いているのだろう。そして、なんという希望にあふれた作品なのだろう。観ている間になぜ気づかなかったのだろう……!
 この先いつまでマスクをしたまま不安の中で過ごすのか、昨日までそればかり心配していたはずだったのに、遠いどこかの出来事だった戦争が急激に自分たちの目の前に迫ってきた。今、この瞬間をどう生きるのか、どう生きればいいのか、『JUST CLIMAX』はそれを教えてくれていたように今さらながら思う。厳しい時代になれば一番に切り捨てられるはずの歌舞伎やミュージカルが、舞台が、なぜなくならずに残り続けてきたのか、今になってはっきりとわかる。そして、そのことを今こそたくさんの人に伝えたい。

さて、そろそろ風呂場を出よう。風邪をひく前に服を着て、私もここから旅に出る。††

03.隔月連載 演技を散歩 ~ pulpo ficcion/第十回 完全情報ゲームと演技-『偶然と想像』

「観る将」という言葉がある。プロ棋士の将棋を観戦したり、解説を読んだりするのが好きなファン、またはそうした楽しみ方のことだ。私も観る将、観る碁だ。ルールは知っていて、ある程度遊べるが、自分で指す・打つことはほとんどない(指すのは将棋、打つのは囲碁)。

といって、プロの勝負での一手一手の狙いや意味など、もちろん素人にはわからない。解説者の言葉を手掛かりに楽しむのである。

「これすごいよ、こんな手見えない。まず何してるかわからない」
「これ、人類に思い浮かびますかね?」
「4一銀は神の一手でしょう!」
「4一銀打ったら、これは信じられないけどなあ。化け物の一手だけど」
「ここで4一銀ですよ、皆さん。プロが見えないっすから。見えないし1秒も考えない」
「スーパーサイヤ人の手でしょこれ。普通の人には見えない」
「4一銀打つ人にもう将棋勝てないでしょ」

藤森哲也五段 ABEMA将棋Ch.「竜王戦2組ランキング戦準決勝 藤井聡太二冠対松尾歩八段」

今回のタイトルにある「完全情報ゲーム」とは、将棋や囲碁、チェスのような対戦者がゲームの状況について全ての情報を知った上で行われるゲームのことを言う。例えば、麻雀は互いの手の内が見えず、完全なゲームではない。そして人生は、自分の事さえよくわからない不完全中の不完全なゲームなのであった(寺山いれてみた)。

さて『偶然と想像』である。あれよあれよという間に世界的監督になった濱口竜介の最新短編集だ。全部で七本の構想があり、そのうち三本からなる作品だ。

ところで、普段この連載では、ネタバレを意識せず書いている。正確には、文中で取り上げた作品を観た人が読んでいる、という建前で書いている。だが今回は、この作品を観ていない人が読むという前提で書こうと思う。だから、あまり具体的な描写をせず、もやっとした表現をしてしまうかもしれないが、できるだけクリアカットな記述を目指したい。

まず驚くのはセリフの聡明さだ。登場人物は、みな自分の言いたいことを、完全に理解しているかのように話す。すぐれた舞台や映画のシナリオは、それがどれほど日常的に見えていても、とても巧みに日常以上の何かをはらんでいるものだけれど、『偶然と想像』は、その度合いが尋常ではない。たとえ混乱していたり、事態や自分の本心を分っていなかったとしても、その状況自体はつとめて冷静に把握している。かのように話すのだ。

だから対話は、非常に相手への配慮に満ちたものになる。どれほど激情に包まれていても、相手がいることを忘れたかのようなセリフはない。自分が今の状況をどう解釈し、どういう意図をもって、どう伝えたいか、あるいはそれがわからなくなっているか。あたかも、登場人物自身の内面を地の文で語っているかのようなセリフ回し。しかし、それがまったくこなれた口語として用意されているのだ。

名人が人工の極致をほどこした細工。けれど、どうみても、たったいまそこでとってきた、天然の造形にしか見えない。そんなシナリオワークだ。痺れた。

玄理「一週間から十日ほどひたすら感情を込めずに脚本を読み合わせるというのを、前回も今回も同じようにやりました」

「偶然と想像」パンフレット:出演者・座談会

『ドライブ・マイ・カー』で劇中劇の稽古として披露されていた方法論は、実際に濱口監督の方法論だったようだ。自分の事をできるだけ正確に把握し、しかも相手に伝えることを念頭においた台詞がある。そうした台詞からできた台本を徹底的に本読みする。さらに、座談会によると、作品外のシーンや言葉も用意されていたという。

玄理「バーでの駆け引きのシーンなんて正直これまで演じたどんなやりとりよりも面白くて、これが本編に使われないのはもったいない!と思ってしまったくらい」

同上

完全情報ゲームとしてのドラマである。全ての情報が演者(間)に開示され、それを十分に読み込んだ上で行われる芝居。ただし、ゲームの解説者は不要だ。何故なら、登場人物自身が、誠実に自分の意図を語っているから。実に驚くべき作劇法だ。

私は映画やシナリオについて歴史的、系統的に知るものではない。しかし、これは極めて現代的なドラマの完成形だと言っても間違いはなかろう。ここで「現代的」というのは相手への配慮、が全局面で意識されていることを指している。

以上。この映画については、この<特別さ>だけを伝えて終わりにしてもよい。あとは観る人が観るように観ればいい。

けれど、後二つのことを書く。というか、そもそもこれ演技についての文章だったし。

ドラマにおいて、完全情報化がもたらす弊害が「オーバーアクト」である。説明過剰、意味の上塗り、感情過多と言っても良い。それをどうやって回避するか、というのが一つ目のポイント。ところがシナリオの段階で、あっさりとこれは防衛されている。台詞が、あまりにも過不足なくすべてを伝えているのだ。

占部「言いづらい言葉ではあるんです。自分の腑に落ちる台詞かと言ったらほとんど腑に落ちない。役になりきるとか、自分の中に言葉を落とし込んでしゃべっている、という感覚とは違う。常に自分の外側に濱ちゃん(濱口竜介監督)が書いた言葉があって、それを演じる相手と渡し合うみたいな感じと言ったらいいのかな。」

同上

占部房子がここで言っているのは、台詞自体が俳優の気軽な感情没入を拒んでいるということだ。緻密に構成されたドラマに沿って、俳優たちは一手一手をその場で丁寧に、差し出す。物語の現状と未来を知っていたとしても、今を繊細に丁寧に生きないと、台詞は単なるコトバに落ちてしまう。落ちてしまったコトバは渡し合うことができない。濱口竜介のシナリオは、そこまでを俳優に要求している。あるいは、その要求にこたえられる者だけが彼の座組に招聘される。

そして最後のポイント。

濱口作品において<演技に固有の領域>とは、それでは、いったい何なのだろう。あまりにも完成度の高いシナリオを文学として読む以上の意味が、俳優の身体から、はたして生まれてくるのだろうか。

生まれてくるのである。

徹底的に作りこまれた台詞を語り、きわめて意識的な方法に基づいて準備された身体から、あまりにも生々しいものが、あふれ出てくるのである。

少しだけ、ドラマに踏み込む。三つのドラマにはそれぞれ、ある種の呪いの瞬間がある。一つは「想像」として大きく主題化され、もう一つは現実の呪いとしてドラマを閉じ、残る一つは間違えた宛先が受け止める。
呪い。自分もろとも相手をどこかにくぎ付けにする、あまりにも暴力的な言葉や仕草。配慮に配慮を重ねた言葉の連なりから、このような暴力が滲み出てくる。それは、デフォルトで配慮の要求される時代、<表現>が必然的にたどり着いた様式なのかもしれない。

そしてこの依り代は人形ではなく、人間(俳優)なのである。

真正面切り返しのショットが何度か現れる。そこには人の表情が映っており、それは人の表情というには、あまりにも美しい。間違いなく意識されているであろう小津の非人情が再発明され、人間が人形の代わりに依り代になる時代の悲喜劇を、やさしいのか冷酷なのかわからない目が見つめている。
観ているのが監督の目なのか、私たち観客の目なのか。それすらわからないような場所で立ち上がる、人だけが表すことのできる非人間的な美。それがこの映画の到達した演技だ。

以上です。演技について考えたい人には、ぜひ見てほしい映画です。そう、できれば劇場のスクリーンで。†††

04.こういう基準で言葉を選んでいます(といくつかのお願い)

舞台、アニメーション、映画、テレビ、配信、etc。ジャンルは問いません。人が<演技>を感じるもの全てが対象です。編集人が観ている/観ていない、共感できる/共感できないは問いません。熱い・鋭い・意義深い・好きすぎる、そんなチャームのある言葉を探しています。ほとんどがツイッターからの選択ですが、チラシやミニマガジン、ほっておくと消えてしまいそうな言葉を記録したいという方針です。

【引用中のスチルの扱い】引用文中に場面写真などの画像がある場合、直接引かず、文章のみを引用、リンクを張っています。ポスター、チラシや書影の場合は、直接引用しています。

【お願い1】タイトル画像と希望執筆者を募集しています。>

【お願い2】自薦他薦関わらず、演技をめぐる言葉を募集しています。>

05.執筆者紹介

箕山 雲水 @tabi_no_soryo
『火垂るの墓』の舞台となった海辺の町で生を受け、その後大学まで同じ町で育つ。家族の影響もあって、幼い頃より人形劇などの舞台や太鼓、沖縄や中国の音楽、落語、宝塚歌劇、時代劇などに親しんでいる間に憧れが醸成され、東京に出てきた途端に歌舞伎の魅力にどっぷりはまって現在に至る。ミュージカルやストレートプレイ、洋の東西を問わず踊り沼にも足をつっこんでいるため、本コラムも激しく寄り道をする傾向がある。愛称は雲水さん

pulpo ficción @m_homma
「演技と驚き」編集人。多分若い頃に芝居していたせいで演技への思い入れがけったいな風に育ってしまった。それはそれで仕方ないので自分の精神的圏域を少しでも広げたいとこのマガジンをつくった。圏域が広がったかというと、ん-、微妙に少し?

06.編集後記

まあ色々取りこぼしております。タイミング的に発行日に能を観ることが多く、今回はアテラレまくった上、自分の文章がどうにもしょうもなく思え、発行遅れました。沢山手を入れたけど良くなったんだか何何だか。そのうち能楽の演技についても書きたいです。それから、3月13日に劇団の稽古公開をしますが、こちらも制作的なあれこれが整っておらず、、♪すべて年度末の所為!、と歌いたい春であります。次号3月27日発行。したっけ!
あ、あと#Just_Climaxってハッシュタグを拒否されるのですが、ノートのルール?(ささやかに抗議!)

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