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演技と驚き◇Wonder of Acting #30

タイトル画像:『マニフィカートの聖母』サンドロ・ボッティチェリ 
演技を記憶するマガジン [ June,2022 ]

00.今月の演者役名作品インデックス

森山未來:友魚『犬王』
ソン・ガンホ:ハ・サンヒョン『ベイビー・ブローカー』
吉岡里帆
倍賞千恵子:角谷ミチ『PLAN 75』
中村又五郎:毛谷村六助『彦山権現誓助剣-毛谷村-』
藤間直三:星野鉄郎『銀河鉄道999』
西野七瀬:北代『恋は光』

01.今月の演技をめぐる言葉

メインコンテンツです。編集人が出あった「演技についての言葉」を引用・記録しています。※引用先に画像がある場合、本文のみを引用し、リンクを張っています(ポスター・公式サイトトップ・書影など除く)。

引用させていただいた皆さん。ありがとうございました †

02.雲水さんの今様歌舞伎旅(ときどき寄り道)

第二十回:気がつけばジャングルの奥~箕山 雲水

こういう書き方をしてよいのだろうか。何日もそのことが心に引っかかりながらPCに向かっている。日本舞踊『銀河鉄道999』について書こうとしているのに、演技が、という言葉しかどうしても浮かんでこない。困った。

日本舞踊『銀河鉄道999』は日本舞踊の新作を生み出している“日本舞踊未来座=SAI=”の公演で6月に3日間だけ行われた。原作は松本零士氏の同名の漫画で、これを日本舞踊で表現しようというのだ。とうとう日本舞踊も2.5次元化か。そんなことを思いながら劇場に足を運んだのは、歌舞伎で観た『風の谷のナウシカ』や『ワンピース』、それに初音ミクさんとのコラボのあの剥き出しのエネルギーが忘れられなかったから、という理由が3割。邦楽器であの主題歌を聴きたかったのが2割。あとの5割は怖いもの見たさだった。ただ、さほど気が進まなかったわりには複数回チケットを押さえていた。これが大正解だったとわかったのは、もちろん実際の舞台を観たあとである。

劇場では、開演前から星を表現したパフォーマンスが行われ、やがて「アテンションプリーズ」のアナウンスとともに、車掌(『銀河鉄道999』のあの車掌さんである)と数名、マナーの説明に出てくる。パントマイムでの説明が終わると、シームレスに群衆が紗幕奥に現れ、そのまま幕が開いていく。そんな始まりで、いきなり洋楽ベースの音楽が鳴り響く。それも聞きなれぬ曲が。セリフは全て、舞台上で踊る人とは別の、松本幸四郎さんと吾妻徳陽(中村壱太郎)さん、それから琵琶の弾き語りなどによる事前録音で進められる。それぞれの衣裳も設定もいったん換骨奪胎した上で、車掌やトチロー、クレア、メタルメナ、ミャウダー、プロメシュームあたりのキャラクターは原作の空気感そのまま、メーテルやエメラルダスはオリジナルの雰囲気でそこにいる、そんな不思議な舞台である。例の有名な音楽はない。踊りのシーンも多いが、日本舞踊を感じる場面は案外少なく、「これは何を観ているのだろう?」冷静に考えてもやはり不思議な舞台だった。それでも、舞台に立っているのは日本舞踊家の方々だから、ふとした身のこなしや動きが圧倒的に美しい。スッポンから迫り上がってきた黒騎士役の尾上菊之丞さんに、客席全体が息をのんだのは忘れられない象徴的な一場面。「受け継がれる想い」というわかりやすいテーマも、おそらくそれぞれの舞踊家の方々の根っこにあるテーマなのだろう、薄っぺらなお題目でないことが伝わってきて、脚本や演出の初演ならではの粗さを上回って感動させられてしまう。

さて、「演技が」としか書きようがなかったのが、主人公の鉄郎だった。演じていたのは藤間直三さんで、これまで、舞台やテレビで拝見するたびにその踊りに惹き込まれてきた人だ。だから、当然今回の抜擢も踊りを期待されてのものだろうと思っていた。ところがこの鉄郎、ほとんど踊らない。踊ってもあくまで鉄郎、少年らしい振りがほとんどで、日本舞踊の見せ場は皆無と言っても過言ではない。全出演者の中で最も日本舞踊の要素が少なかったのが鉄郎だったのではないか。ところがこの、日本舞踊家としての手足をもがれたような状態の鉄郎に、しかも自分でセリフを言うこともない鉄郎に、腹の奥底をぐっと掴まれてゆさぶられる羽目になる。

母とともに登場し、目をきらきらさせて幸せな時間を過ごしていた少年が、機械伯爵に母と恩人を撃ち殺されて呆然と崩れ落ち、泣き崩れる。演じ手は大人のはずなのに、どこからどう見ても子どもとしか思えない。その鉄郎にメーテルが999に乗れと声をかけると、涙でぐちゃぐちゃになった顔からすぅっと絶望が消えていく。まるで波紋が広がるように、でも子どもらしく理屈抜きのはやさで。その後も泣き、笑い、おそれ、悲しむたびに表情がころころころころと変わっていき(プロメシュームの魔術?に心が囚われてしまうシーンなど、見事に目までまわしていた)、そのひとつひとつの出来事のたびに面構えが精悍になっていく。どのシーンでも、鉄郎を演じるその人の心そのものが震えているのがよくわかるから、こちらもとても冷静ではいられず、最後には「もう勘弁してください」と心の中で叫んでしまうほどだった。踊りを観に来たはずだったのに、今、何が目の前で行われているのだろう…?もう、涙が止まらない。

さらに、である。2回、3回と鑑賞していくうちに驚かされたことがある。この大いに心の動きが見える芝居が、毎回きっちりと音楽の間にはまって演じられていたのだ。毎回、寸分たがわぬタイミングで膝をつき、立ち上がり、顔が変わっていく。ぱちん、ぱちんとキッカケにはまっているのに、細かい目の動き、ちょっとした動きの違い、それに息遣いはごくリアルに、その回ごとの変化をする。様式とリアルが同居する、たしかに歌舞伎でそんな芝居に出会うことはあるけれど、しかしこれは日本舞踊の舞台であったはず。むしろ、これが本当の日本舞踊なのだろうか。しっかりと間にはまり、形で見せながら、外だけではなく心の中も大きく動いていく踊りが。今まで観てきた日本舞踊は、もちろん心の動きは見えてはいたが、やはり型の印象が深く、今観ている舞台のあまりのギャップ、あまりの違和感。「もう勘弁してください」その叫びは回を増すごとに心の中で大きく、大きくなっていき、やがてその叫びは「もっと日本舞踊を観てみたい、もっと日本舞踊を知りたい」そんな欲求へと変わっていった。

日本の伝統芸能、それにしても奥が深い。ジャングルの奥地に入り込んでしまったような底知れぬ魅力に、これはえらいことになったぞと今、身震いがとまらない。どこで何に出会ってしまうのだろう。震えながら…これはもう後戻りはできないのだろうなぁ。

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03.演技を散歩 ~ pulpo ficcion/第十二回 孤独ということ:『恋は光』

人が孤独であることの決定的瞬間を観た。宝物のような西野七瀬の演技を観た。そのことを書こうと思う。

『恋は光』(原作:秋★枝、監督:小林啓一)の主人公は、恋する人の発する<光>が見えてしまう大学生(西条:神尾楓珠)である。彼には小学生のころからの友人(北代:西野七瀬)がいる。北代はずっと西条のことが好きだが、なぜか彼には彼女の<光>は見えない。おさななじみとして、その事実を知らされている北代は西条に告白することなく、自らの恋を半ば封印しつつ、彼との交友を楽しんでいる。望みもしないのに見えてしまう<恋の光>をうとましく感じていた西条の前に、はじめて気になる女性が現れる。

三角関係という定番に<恋の光>が見える能力というプロットを掛け算し、映画は高原のように続く。リアルのようで絶妙にツクリモノめいたセリフを、「やってみせる」口調からふた目盛りくらいトーンダウンさせ、ひょうひょうとつなぐ演出。端正な画と編集が、リアルとフィクションの隙間で一定の高度を保ち続ける。三角関係をさらに複雑にする人物の出現にも透明なユーモアが損なわれることはない。北代がときどき見せる寂しげな、もの言いたげな視線も、明確に示されるものの、深追いされることはない。

電車やバスで移動するシーンが多用されるこの映画自体が一種の乗り物のようでもある。観客は車窓から眺めるかのようにチャーミングで浮世離れした彼らの生活を楽しむ。とぎれることなく心地よく流れていく恋についての風景。

そして終盤に近付いた物語に、西条同様<恋の光>が見える画家が登場する。映画はここで大きなカーブに差しかかる。画家との待ち合わせに付きあわされた北代。<恋の光>を見ることのできる二人の会話を楽しそうに聞いている彼女は、やはり本当に西条のことが好きなのだな。心が少し暖かくなり、画家の新作の話題に、ああ、その絵見てみたいなあ、と気をひかれていたところに、突然それがやってくる。

画家は別れ際に、これは言わずにおこうかと思ったけれどと前置きして、北代に告げる。あなたの<光>は今まで見たどの光より美しいですよ。と。西条には見えない北代の恋心が、画家にはずっと見えていたのだ。

世界が一瞬凍る。心地よく映画に乗っていた観客は突然、その場面に振り落とされる。

この瞬間の北代が、痛ましく、美しい。こわばった肩から、全身がピン止めされて、前にも後ろにも横にも、どこにも行けなくなった一人の人が、おびえたように一人でそこに立っていた。凝視することもおよぐこともできなくなった瞳が、言葉を失いながらも、逃げることなく懸命に今を見つめていた。

彼女の孤独が私たちはわかる。と、同時にこの孤独は、誰にも抱えられない。「西条に<光>が見えない」ことで担保されていた伝わらない思いを、まったき善意からあばかれてしまった、思いはかなわないと知っていた北代の孤独は、この瞬間、全世界でたった一人彼女だけのものだ。必死で言葉を紡ごうとする北代に、私たちにはかける言葉もない。明るく手を振る画家を見送り、精一杯とぎれとぎれの言葉を残し、北代はその場を去る。

記録表現たる映画は、その決定的瞬間を容赦なく、おさめ切ってしまう。

共感(シンパシー)と驚き(ワンダー)のどちらもがそこにあった。ひどく人間的なものと、とても非人間的なものが同時に、そのシーンに映しとられていた。繰り返しになるけれど、その北代の痛みは、誰もが理解できるものであり、しかし、本当にはそれは、誰にも支えてもらえず、たった一人でのむしかないものだからだ。そういう感情が確かにそこに記録されていたからだ。

映画はそこからも続き、そして終わる。映画全体を振り返って、ああ良かった、と思うことさえできる。けれど、あの瞬間の北代の孤独は、この映画が開始してからしかるべき時間がたった時点に、どこにも行けない姿のまま記録されている。そのことを思うと少し胸が痛い。

忘れえぬしるしが残ること、演技というものの、喜びと痛み。人の姿が作品の部分となるだけではなく、その傍らで、観客の感情や気持ちとともに存在し続けること。演技固有の輝きとはそういうものなのだ。久しぶりにそんな演技に出会うことができた。

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04.こういう基準で言葉を選んでいます(といくつかのお願い)

舞台、アニメーション、映画、テレビ、配信、etc。ジャンルは問いません。人が<演技>を感じるもの全てが対象です。編集人が観ている/観ていない、共感できる/共感できないは問いません。熱い・鋭い・意義深い・好きすぎる、そんなチャームのある言葉を探しています。ほとんどがツイッターからの選択ですが、チラシやミニマガジン、ほっておくと消えてしまいそうな言葉を記録したいという方針です。

【引用中のスチルの扱い】引用文中に場面写真などの画像がある場合、直接引かず、文章のみを引用、リンクを張っています。ポスター、チラシや書影の場合は、直接引用しています。

【お願い1】タイトル画像と希望執筆者を募集しています。>

【お願い2】自薦他薦関わらず、演技をめぐる言葉を募集しています。>

05.執筆者紹介

箕山 雲水 @tabi_no_soryo
『火垂るの墓』の舞台となった海辺の町で生を受け、その後大学まで同じ町で育つ。家族の影響もあって、幼い頃より人形劇などの舞台や太鼓、沖縄や中国の音楽、落語、宝塚歌劇、時代劇などに親しんでいる間に憧れが醸成され、東京に出てきた途端に歌舞伎の魅力にどっぷりはまって現在に至る。ミュージカルやストレートプレイ、洋の東西を問わず踊り沼にも足をつっこんでいるため、本コラムも激しく寄り道をする傾向がある。愛称は雲水さん

pulpo ficción @m_homma
「演技と驚き」編集人。もうちょっと色々準備してやれよ。と自分ながら思うのですが、できる範囲でやるしかないわさ。素手主義者。

06.編集後記

今日(2022/6/25)は暑すぎました。編集しながら布団を干していたら、にわか雨がやってきて、家の前を通った善意の人が、大声で「雨降ってきましたよ!」と呼ばわってくれたおかげで、大惨事をまぬかれることができました。ありがとう善意の人。それではまた7/30発行予定の次号で!

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