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Re:Night 序章

 人間の死体を葬儀場以外で見たのも、死体が動いた事もはじめてだった。
 その日老人はいつものように朝五時に自分の経営するお店に入っていた。夏の蒸し暑い空気の中鍵を開けて店内に入り、冷房を点けていつものように携帯ラジオの電源を入れる。ラジオからノイズ混じりの音楽を聴きながらタバコを取り出し火を点けて、一度タバコを肺まで吸い込んで吐き出した。煙草は一日二回の超高級嗜好品の為、ゆっくりと丁寧に吸うのが日課だった。
「やっぱりうめえなあ」
 英国の人間では無いものの、昔読んだ書物に紳士たる者煙草はゆっくりと丁寧に大事に吸うものだと載っていたのを今でも覚えている。禁煙推奨の時代が到来して高騰してかなりの年月が経つが、これだけは辞められないものだった。とはいえ、今では紳士とは程遠い小さな精肉店を経営していてアンティークの煙管等持てないとりわけ貧乏な身だ。
 再び煙草を吸い込んで吐き出そうとしたところで肩越しの冷凍庫から何か物音がして咳き込んだ。思わず振り向いたが、扉の向こう側の音の為見た目では何も変化は無かった。
「ネズミでも迷い込んだかね」
 今の時代、科学が進歩しても虫や動物の類は少なくなったものの人間社会の裏側に潜んでいる。万が一の可能性もある、商品が商品で無くなる可能性もある為老人は煙草を灰皿に置いたまま重い腰を上げてゆっくりと冷凍庫の扉の前に立つ。一日の楽しみである喫煙の時間にこのような邪魔が入った事に重い溜息を吐いてゆっくりと開いた。
 かなり大きな冷凍庫から冷房の風よりも遥かに下を行く凍りついた風が頬を掠める。両脇の商品にまず目が行って安堵した瞬間、
「なっ」
 真ん中の通路に横たわる血だらけの死体が目に止まった。死体、と判断したのは明らかに凍り付いており腹部から腰にかけての肉が無い。床一面に広がった血溜まりに老人は驚くよりも先に唾を飲み込んだ。食肉動物の亡骸を見る事は日常茶飯事だが、人間の死体を間近で見るのははじめてだった。吐き気をもよおす事は無かったが、それでも人一人の死体がここで見つかった事に対して老人は様々な思考を巡らせていた。自分のお店の今後が危ういかもしれない。
 そこまで思考を巡らせていた刹那、その死体が唐突に動き始め立ち上がった。瞬間、驚異的な身体能力で老人を押しのけて血を垂らしながら勝手口に行く。後ろにつんのめった老人は慌ててその後を追い、開け放たれた勝手口から外に出る。明らかに、致命傷だった。人間の死体は見た事無いものの、動けるはずは無かった。この業界で何年も生きてきた老人には確信があった。
「おい、おい……」
 関わるべきでは無いと脳裏では判っていたが、それでも、不思議と後を追っている自分がいた。勝手口から裏通りに出たところで直ぐにうずくまっている死体、だったはずの人間がいた。
「おい、あんた、救急車呼ぼうか……」
 返答は無かったが、とりあえず警戒はされているもののこちらに敵意が無い事は分かってもらえてたようだった。良く見るとその死体は二十歳前後の女性で肩まで掛かった髪はぼさぼさだったが整った顔立ちをしていた。こんな時に何を思っているのかと自分でも分かっていたが、その綺麗な顔立ちとその姿が美しく見えていた。
「あんた、その傷どうしたんだ……」
 老人が駆け寄って様子を見ようとしたその瞬間、その傷口は既に修復を始めていてほんの僅かであるが傷が小さくなっていた。という事は、あの冷凍庫に入る瞬間まではどんな傷を負っていたのだろうか。目の前で起きている事が未だに受け入れられず老人は思わず一歩後ろにたたらを踏む。
 その瞬間、大通りで車の急ブレーキの摩擦音が響いた。その直後、発砲の音と悲鳴が響いて大勢の足音が聞こえた。そっと物陰から覗き込むとそこには警察の車両が複数台停まっていた。
「こちら検体番号20145回収完了」
 朝の都内はかなりの静けさで警官達の声が聞こえていた。まさか後ろにいる女性の怪我は、あの警察達の仕業だろうか。
「あんた、追われているのか……」
 振り向き際に声をかけた瞬間老人は目を疑った。

 ……なっ……。

 そこにあったはずの姿が無く、最初から一人だとでも言わないばかりの静寂に老人は思考が追いつかなくなる。警察があの子を傷付けたのだろうか、それだけの事をしたような顔には見えなかった、そしてあの人間離れした生存能力、老人は次々と思考が浮かんではそれを無理矢理掻き消していた。警察が、そんな事するはずが無いとどこかで思い込んでいる自分がいた。
 その後おぼつかない足取りでお店に戻り血の痕を洗い流したが、時間が経つに連れてどんどん現実味が薄くなっていった。それから数日経ったが、警察にも何も言えずにそのままそれが夢ではないのかと老人は本気で考え始めていた。

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