浪人街 (1990年) 感想(ネタバレ有り)

#映画

「日本映画の父 牧野省三 追悼六十周年記念作品」としてマキノ正博(マキノ雅広名義)総監修の元で制作された、1928年(昭和3年)公開『浪人街 第一話 美しき獲物』四度目のリメイク作品。

幕末、夜鷹や浪人が集まる下町の中でもバラックのような一角で、この街で夜鷹が次々と斬られていく事件が発生する。犯人は遊び半分に凶行におよぶ旗本一党、おまけに大店の商人や同心もグルだから、とても手出しは出来ない。

で、この街には、四人の食いつめ浪人がいる。
天文学を学びに江戸に出てきたが、何らかの理由で今はお新(樋口可南子)のヒモ同然の荒牧源内(原田芳雄)、上司の代わりに無実の罪をきせられ浪人となり小鳥を売って生計を立てる土居孫左衛門(田中邦栄)、殿様の新しい刀の試し斬り(死罪になった罪人の死体を斬る)を生業にする母衣権兵衛(石橋蓮司)、殴られ屋兼一膳めし屋「まる太」の用心棒、赤牛弥五右衛門(勝新太郎)。
普段は役立たずのろくでなしの彼らが、殺された街の世話役で「まる太」の主人の仇討ちに行って捕まり、牛裂きにされようとしているお新を助けるために立ち上がる……という内容。

へっぴり腰の侍二人による果し合いのシーンから映画がスタート。
で、負けて死んだ方の刀を、原田芳雄演じる源内が自分の竹光(竹で作った模造刀)と取り替えるんだけど、この一連の流れで(特に言葉の説明もなく)、平和が続き侍は真剣をちゃんと使えないという状況や、源内のキャラクターの一部を説明してる。

そこから、何者かに夜鷹が斬り殺される事件が起こっていることや、四人の浪人の職業?や立ち位置。性格なんかが徐々に分かるように筋立てされている。
なので、「チャンバラ映画」だと思って観た人は、肩透かしを食らうかも。
117分中約100分は、この四人(特に原田芳雄と勝新)が、いかに最低な負け犬なのかの描写が続くから。

同時に、この四人がどうして浪人になり、武士に対してどんな思いかも、ストーリーの中にちゃんと織り込まれている。
源内は元々学者になりたかったから武士には未練がない(冒頭で竹光を差してるし)とか、権兵衛は武士に嫌気がさしてるけど金のために関わってるとか、孫左衛門と赤牛は武士の身分に執着してて、今の暮らしに不満がある(というか武士である自分にしか価値がないと思ってる)とか。
実際、赤牛は事あるごとに、なんとか士官を果たそうと画策するし、毎朝のように自殺の真似事をするし、あげく身内の夜鷹や「まる太」の店主を殺した旗本の家来に志願する始末。

あと、原田芳雄の「源内」と樋口可南子の「お新」の関係も見えてくる。
最初、お新が源内に一方的に惚れてるように見えるけど、話が進むごとに源内もお新を求めてるとか。悪ぶって見せてお新の愛情を試してるとか。(自信のなさの裏返し?)

復讐に失敗し、旗本に殺されようとしているお新を助けにいく手前、源内と店の小僧佐吉のやり取りのシーン。
その前のシーンで、源内はお新が死を覚悟で仇討ちに行ったことを知って、(多分)自分も死のうとしてるんだけど、佐吉にお新を助けるように言われて「他人のために命はかけねえ」と突っぱねる。
「他人じゃないだろ」「他人だ」「他人じゃない」「他人だ。分かりもしねえで知ったふうな事を言うな」
そこで、佐吉は、だったら源内の命を買うと言う。
「俺は高けえぞ」
「十両」
「十五両」
「買った」「売った」
要するに、源内はお新を助けに行く大義名分が欲しいだけなんだけど、そこまで、約100分の前振りがあるから、このやり取りが最高アガる。
店に置いてあった、ありったけの刀を腰に差して、いざお新救出に向かう時に、源内は佐吉に「重いぞ!」と言い残す。
なんせ一本約1kgの刀を十本近く差してるんだから、それはそうだっていうシーンだけど、このセリフが多分、源内が武士という身分に感じていた思いの暗喩でもあり、武家社会に対しての皮肉なんだと思う。

で、いよいよ殺陣のシーン。
120人の侍が待ち構える朝霧漂う森に、一人現れる源内。
そこから、斬り合いが始まるけど、これがまた最高に「カッコ悪い」。
源内はもとより、斬りかかる敵もなんだか様になってないこのシーンで、冒頭のへっぴり腰の果し合いが伏線として回収されるんだよね。
つまり誰も真剣で斬り合ったことがないから、不格好で当たり前っていう。
で、そんなに強いわけでもない源内が、相手を(不格好ながら)次々斬っていくロジックにもなってる。
どっちも弱いんだから、後先考えず命を掛ける覚悟を決めた方が優勢に決まってるっていう。

とはいえ、多勢に無勢。これは無理かと思ったところで、石橋蓮司演じる母衣権兵衛が白装束で駆けつける。権兵衛は居合いの達人だし、試し斬りで刀に慣れてるから超強い。さらに、甲冑を着て(甲冑は冒頭で孫左衛門の家宝として登場してる)田中邦栄演じる土居孫左衛門も馬郎から買った?馬に乗って加勢に加わり、形成は逆転。

そんな様子を、勝新太郎演じる赤牛は樽酒を呑みながら楽しそう(嬉しそう)に見てる。

いよいよ敵の旗本に迫った権兵衛の前に立ちはだかる赤牛。
すわ、二人の斬り合いかと思った瞬間、赤牛は持っていた刀を自分ごと後ろの旗本に刺す。(ここでもそれまでの「振り」が伏線になってる)
元の映画では途中から赤牛も加勢に加わり、「裏切ったか!」と叫ぶ旗本に「裏切ったのではない、表返ったのだ」というらしいけど、個人的にはこっちのほうがしっくりくる。

このシーンは、赤牛の「士道」を示してるんだと思う。
赤牛は侍として、一度仕えた主人を裏切るわけにはいかない。主人が死ぬときは自分も死ぬのが彼の「士道」だから、自分ごと旗本を刺した。ある意味、敵から主人を「守った」。
つまり、孫左衛門と権兵衛は侍を捨て、赤牛は侍として死んだっていう、生き方のストーリーでもあるっていう。

そう書くと、結局「男」の世界のストーリーに思われるかもしれないけど、実はこの映画のメインは女性なんじゃないかなと思う。
面白半分に人を斬る旗本や、グルになって旗本を守る役人も、四人の浪人も、登場する侍は結局「武家社会」に取り込まれてるバカばかりで、社会的には底辺の夜鷹たちだけが、体を張って稼ぎ、子供を育て、仲間の死に泣き、仇討ちを決意する。
この映画でまともなのは、結局女性である彼女たちだけ。

それは現代にも通じることで、結局、男は女性には敵わないんだよね。

僕はこの映画、もう何回観たか分からない。
で、自分が年を重ねて、見返すたびに何かしら発見がある。
ネットの論調を読むと、役者頼りとか大殺陣のシーンはいいけど、前半はグダグダしてるという意見も多くて、それはそれでその通りなんだけど、でもよく観ると、そのグダついてるように見える部分は、ラストの大殺陣への伏線や振りとして、丁寧に四人の浪人、夜鷹、旗本を通してダメになっていった武家社会の歪さを描いてるんだよね。


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