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久栖博季「ウミガメを砕く」

新潮2023年6月号。

読み始めてすぐに思ったのは、文章が下手、ということ。

書き出し、

《素足で陶器の破片を踏んだら、目の中に炎が燃えた。烈しいのに暗い炎だった。わたしは咄嗟にiPhoneのライトを点灯してマントルピースの上を照らし、その上に置いてある古い写真を睨みつけた。そうして動物に囲まれた写真のひとを目の中の炎に閉じこめて「アッシジの聖フランチェスコ」と揶揄する。そのひとの髪は短くさっぱりして、のぞいた耳朶には大きな銀色の輪のピアスをしていた。女性なのに、わたしが聖フランチェスコという男性とかさねるのは、写真の前に立つたびに男性のように力強くて大きなてのひらで心臓を握りつぶされる思いを味わうせいだ。[…] 》

《その上》という指示語が、「マントルピース」を指しているのか、「マントルピースの上」を指しているのかが不明瞭だ。前者であれば「その上」は「マントルピースの上」という意味になり(→マントルピースの上に古い写真が置かれている)、後者であれば「その上」は「マントルピースの上の上」という意味になる(→マントルピースの上の棚か何かの上に古い写真が置かれている)。

おそらく前者だろうと推測できるとはいえ、言葉に敏感な読者ならこの時点で引っ掛かりを覚えるだろう。「わたしは咄嗟にiPhoneのライトを点灯してマントルピースの上を照らし、”そこに”置いてある古い写真を睨みつけた。」とすれば、指示語の不明瞭さは消え、それ以外に解釈しようのない読みやすい文章となる。「マントルピースの上」と書いた直後に、「その上」という指示語を書くのは――日本語として間違っている訳ではないが――作文のセンスがない。

《素足で陶器の破片を踏んだら、目の中に炎が燃えた》とは一体何なのか。幻覚なのか、メタファーなのか(メタファーであればもっとマシなのを考えて欲しい)、最後まで読み通してもこの文章の意図が明かされることはなかった。何だ、作者がそういう表現を使いたかっただけなのね、と僕は一人で勝手に合点した。……それにしても、地震があったことに気づかない、小鉢が床に落ちた音にも気づかない、おまけに痛みを感じない(後天的な無痛症の)主人公が、暗闇のなかで自分の踏んだものが陶器の破片であると断定できた理由は何だろう?

(主人公は後天的な無痛症だろうに、「三十を過ぎて足の裏の皮がすっかり分厚くなったせいで、陶器の破片を踏んでも全然痛くない」(意訳)というトンチンカンな説明がなされる。本気なら「はぁ?」(by猫ミーム)、自虐ジョークのつもりなら寒過ぎる。)

《女性なのに、わたしが聖フランチェスコという男性とかさねるのは、》は説明的過ぎる。もとよりフランチェスコはイタリアの男性名だ。イタリアの男性名を述べた後に「~という男性」と補足するのは馬鹿げている。聖フランチェスコは高校の教科書にも登場するような(男性と分かり切っている)有名な人物だ。

《写真の前に立つたびに男性のように力強くて大きなてのひらで心臓を握りつぶされる思いを味わうせいだ》「~という男性」と聖フランチェスコの性別を駄目押しのごとく強調した直後、《男性のように》と安直な(質の悪い)比喩を挿入するのだから笑ってしまう。作者は、一人称の話者は、聖フランチェスコの男性性によほど惚れ込んでいるらしい。

内容に関しては……率直に、つまらなかった。

作者は書きたいことがたくさんあるんだろう、というのはひしひしと伝わってくる。二百枚に満たない中編小説で、アイヌやら動物の剥製やらいじめやら無痛症やら地震やら祖父の記憶やら、様々な要素が詰め込まれている。

主人公の夢、幻覚、回想シーン、またフランチェスコおばさんの個人的な思い出話に多くの頁が割かれ、主人公の現在パートはその犠牲になったかのように貧弱だ。現在パートは回想パートの導入として利用され、回想パートは現在パートの説明として利用される。主人公はダイニングテーブルの焼き鮭を見ただけで、《この鮭はどこで生まれたんだろう》とセンチメンタルな思いを馳せ、そこから何頁にもわたって小学生の頃の鮭に関する思い出話を語る。……コレ、オモシロイ? ワタシ、ドウデモイイ。

作者はリアリズムのつもりで書いているのだろう。だが、不自然なシチュエーションが多いせいで、どこか浮世離れしたファンタジックな雰囲気が漂っている。一番の問題は、アイヌの問題を扱っておきながら、社会的な視座が欠落している点だ。登場人物は主人公の身内ばかり。回想パートでいじめっ子が登場するくらい(いじめっ子の描写は紋切り型で、一昔前の少女漫画に登場するような顔のないモブキャラ程度の位置づけ)。この作品には具体的な手触りのする「他者」が存在しない。

主人公は、車のヘッドライトを点灯させた直後に、《ああ、そっか。電気って照らしたり機械装置の動力になったりするだけじゃなくて、そもそも文明世界の時間そのものを動かしているのだ、[…] 電気がわたしの時間を動かしている。電動の人生だ。》と「気づき」を得るような、相当変わった三十過ぎの女だ(おそらくスピリチュアルと親和性の高い人物だ)。

また、ただ片足を持ち上げるだけの行為を、《わたしは大型の水鳥のような優雅さで […] 》と、読んでいるこっちが気恥ずかしくなるような比喩で表現することから(自分で自分を「優雅」と表現するのか)、強烈なナルシシズムを有した人物であるとも推測できる。

この作品には身内以外の「他者」が登場しないため、主人公のこうした「変さ」「ナルシストっぽさ」が相対化されることはなく、読者にとっては最初から最後までよく分からない人物のまま。そんな「よく分からない人物」である主人公が、主人公以上に「よく分からない人物」であるフランチェスコおばさんとの交流を通して、ある種の癒し(のようなもの)を得る――。一体、誰に向けて書かれた小説なのだろうか? 作者は、身近な、ごくごく狭い範囲の読者だけを想定しているのだろうか?

(補足:「他者」が存在しない小説は駄目だ、と言いたい訳ではない。社会的な視座を有する優れた書き手であれば、身内間で完結するような小説であっても、その書きようによって登場人物および登場人物を取り巻く環境を相対化させることができるだろう。)

先ほど、この作品には「不自然なシチュエーションが多い」と書いた。

例えば、冒頭のシーン。小説に書かれている限りでは、主人公の住んでいるあたりは震度1だったと推測される。震度2以上であれば、母親よりも先に起床している主人公が揺れに気づかないのは不自然だからだ(主人公が何時に起床したのかはっきりと書かれていないが、明け方、iPhoneの懐中電灯が必要なほど暗いリビングで陶器の破片を踏んだということは、それより前、未明――地震の発生する時間――には目覚めていたと考えられる)。

主人公はリビングで踏んだ陶器の破片について、《不安定なところに置いてあったのだろう》と他人事のように振り返っている。震度1で小鉢が落下するなんて、どれだけ不安定なところに置かれていたのだろう? 地震対策のために枕元に懐中電灯を置いて寝るほど意識の高い母親が、リビングのそんな不安定なところに小鉢が置かれているのを容認するとは思えない。色々とシチュエーションに無理がある。

また、回想シーン。主人公の「おじい」は二週間も家出する。主人公は《トルストイみたい》と呑気な感想を述べているが、二週間も「おじい」はどこで何を食べて生き延びたのだろうか? 温暖な環境ならまだしも、ここは北海道だ。家族の誰かが警察に捜索願を出したという記述もなく、全てがフワッとしている。社会的な視座の欠落はこういった場面にもあらわれている。

また、さらに別の回想シーン。高校生の主人公はピアノを弾いている最中に、いじめっ子によってピアノの蓋を乱暴に閉められてしまう。演奏中ということで、おそらく両手に怪我を負ったのだろう(薬指に至っては骨が粉々になったそうだ)。白い鍵盤を汚し、さらに音楽室のカーペットに赤黒い染みを作るほどの手指の出血、これはなかなか酷い怪我だ(いじめっ子は北斗の拳よろしく凄まじい勢いでピアノの蓋を閉めたに違いない)。

一人で手当てして母親相手に腱鞘炎だと嘘をついた、とある。それだけの出血であれば手当の途中で包帯に血が付着してしまうはずだ。骨が粉々になるほどの骨折なら炎症によって酷く腫れ上がるため、腱鞘炎と誤魔化し切るのはなおさら難しいだろう。作品の冒頭で娘の足の裏の怪我について「夕香、その足なによ、どうしたの!」と騒ぐような母親が、両手とも血に汚れた包帯ぐるぐる巻きの高校生の娘を「あらあら腱鞘炎なら仕方ないわね~」とスルーするとは思えない。

……疲れた。

文章に関しても内容に関しても、まだまだ書き切れないほどツッコミどころが多い。

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