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第四回ことばと新人賞受賞作(福田節郎『銭湯』、井口可奈『かにくはなくては』)

文学ムック「ことばと」vol.6を読んだ。佐々木敦が編集長らしい。僕は佐々木敦の小説も評論も読んだことはない、もちろん純文学主要五誌をぱらぱらと捲っている時に視界に入ったことはある、文芸界隈・批評界隈での人付き合いが上手で、いつも無難なことを書いているという印象、読んでも読まなくても自分の人生には何の影響もないだろうと素通りしていた。とはいえ、こういう人がどういう文芸誌を目指すかには興味があった。

「ことばと」vol.6に掲載されている詩と小説で面白いと思える作品は谷川俊太郎の巻頭表現のみ。特集「戦争に反対する詩人たち」の詩のレベルは翻訳の問題を差し引いても谷川俊太郎には及ばず、唯一才能があると感じたのはエカテリーナ・ザジルコの「無題」だった。

第四回ことばと新人賞受賞作に触れておく。福田節郎『銭湯』、井口可奈『かにくはなくては』、昨今の純文学の新人賞の受賞作のなかでは比較的よかった。というのも、直前に読んでいた第59回文藝賞受賞作(安堂ホセ『ジャクソンひとり』、日比野コレコ『ビューティフルからビューティフルへ』)の二作いずれも、内容について論じる以前に小説の文章になっていなかったからだ。逆に言えば、新人賞に関して、「ことばと」は純文学主要五誌と互角、あるいはそれよりレベルの高い文芸誌ということになる。

福田節郎『銭湯』、選評を読んだ時、保坂和志と滝口悠生を足して二で割ったような小説かと想像を巡らせた。読み始めると、福田節郎はそのどちらにも似ていなかった(大雑把に捉えれば、あるいはごく一部にだけ注目すれば、確かに似ているところはあるが、福田節郎はすでに福田節郎のスタイルを築いている)。日記ブログのようなだらだらとした文章にもかかわらず、無駄な描写はほとんどない、変にスベッた比喩もほとんどない、作者が自分の感覚にきちんと落とし込んだ上で書いていることが伝わってくる。

しかしそれが面白いかと言われると、面白くはない。「これだけの分量を、このスタイルで貫きました」という以外、評価できる点は見出せない。登場人物らは酒を飲み続けているが、酒を飲み続けている時の酩酊感は伝わってこない。文章は最初から最後まで良くも悪くも理知に富んでいる。理知に支えられたユーモアはあっても、読者の情感を掻き立てるものがないから平板でつまらないと感じる。

ここからは僕の勝手な妄想だが、この文体に至るのに作者が苦労を重ねた痕跡は見えない。努力して獲得した賜物というより、最初からそれなりに文章が書ける人だったんじゃないか。自分の文章が何を描くことに向いていて、何を描くことに向いていないかを分かっている。分かり過ぎているくらいだ。だからか、登場人物の描写にしても場面の組み立て方にしても似たり寄ったり、作者の志はさほど高くないと分かる、いつもどこかで余力を残している、選考委員が選評で指摘していたように文章体力はあるが、その文章体力は自分の得意不得意を見極め「無理をしない」ことで成り立っている。

てにをはの狂い、段落一字の下げ忘れなど、つまらない校正ミスがあった。「ことばと」の編集のやる気のなさがうかがえる、そこは文芸誌として最低限きっちり守るべきところだろう。

井口可奈『かにくはなくては』、冒頭は良い。ちゃんと小説の文章が書けている。最初の一頁目に関しては、『銭湯』よりセンスがある。作者自身の経験が反映されているんだろう、書き手の身体性の伝わってくるような良い描写になっている。「小説の文章が書けている」という至極当然のことで小説を評価するのはどうかしているが、現代文学シーン()は一行も小説の文章が書けない作家で溢れ返っているので、このような評価になる。

作者の文章に対する集中力は最初の一頁目で途切れ、それからはひたすら劣化していく。文章が雑になるから展開も雑になるのか、展開が雑になるから文章も雑になるのか、頁が進めば進むほど小説のつくりが雑になっていく。作中でいわゆる「意味不明なこと」がたくさん起こる。「意味不明なこと」のうちの何割かは、作者が頭の中で場面をちゃんと組み立てられない力量不足、あるいは準備不足に由来するものであり、わざわざ不条理文学として好意的に解釈するほどのものではないだろう。「意味不明なこと」を「意味不明なこと」として押し通すだけの迫力あるイメージをつくれなかったのは致命的な欠点と言える。

【追記】

ついでに、書肆侃侃房「web侃づめ」掲載:福田節郎「Maxとき」の試し読みをした(『銭湯』の単行本に収録されているらしい)。『銭湯』の前に書かれたのか後に書かれたのか分からない。『銭湯』より文章が下手だから、おそらくは前に書かれたんだろう。『銭湯』の感想で「日記ブログのようなだらだらとした文章」と書いた、これは褒めてもいないし貶してもいない、技術的に一定の域に達したひとつのスタイルとして捉えている。いっぽう、「Maxとき」は日記ブログのような、じゃない、日記ブログそのものだった。「Maxとき」は作者の意識が内容のレベルに留まり(肝心の内容は取っ散らかっており、なかなか頭に入ってこず何度か読み直した)、文章にまで降りてこない、ゆえに『銭湯』より一段劣ると感じた。試し読みの範囲では、この作品を手に入れたいと思わなかった。

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