見出し画像

試作した飛行機の数々と現代の分離された仕事

甲式一型練習機について調べているとき、日本製航空機一覧の情報を見つけました。

試作した飛行機の数々

「日本製航空機の一覧」のWikipediaを見ると、今から100年以上前、日本初飛行や初の飛行機の国産化に向けて陸軍や各航空機メーカーの努力の痕跡が伺えます。

リンク先の「第二次世界大戦前−戦中」の項目にある表を見ると、様々な飛行機の試作や研究開発を繰り返し、記載があるだけで甲式一型練習機の製造は日本製航空機では24番目の飛行機となっているのが分かります。陸軍関係だけで数えると、甲式一型練習機は22番目に作られた(改良版、計画中止含む)機体になります。
臨時軍用気球研究会が設立されたのが1909年、甲式一型練習機の元であるニューポール81E2は1919年に輸入しているので、10年の間に多くの飛行機の試作と改良を繰り返し、計画中止になったり飛行能力がなかったり、幻の機体とされる飛行機が多々存在することが伺えます。
日本製飛行機だけでなく、日本初飛行を成功させたフランスのアンリ・ファルマン機やドイツのグラーデ単葉機など、輸入飛行機の研究も行っているため、陸軍が研究していた飛行機はすごい数でしょう。
まさに「飛ぶ」ための飛行機の研究会です。

また、表の「製造者」を見ると序盤はほぼ陸軍だけで設計から製造まで行っていたようですが、国産化となった甲式一型練習機あたりから製造は三菱造船、甲式ニ型練習機は中島飛行機、その後は川崎飛行機、石川島飛行機(立川飛行機)など、だんだんと各航空機メーカーが機体の製造をしていくことが分かります。
甲式一型練習機の欄では機体は57機しか生産されていないことと、機体の製造には「三菱造船」と書かれています。前の記事では陸軍で国産化とありましたが、その後は三菱造船に依頼して製造していたということかもしれません。

当時の一貫した仕事と機体の特徴

また、陸軍の飛行機担当の仕事と、当時どのような状況だったのかを想像できる記述がありました。

陸軍は航空企業に開発仕様書を数多く提出し、要求も技術をはるかに上回ることが少なくなかった。このため、実現しなかった航空機、試作で終わった航空機がかなりの数に上るが、膨大な試作機を製作させることで、結果として国内各社の製造技術力を押し上げることとなった。
引用

陸軍の飛行機担当としての仕事は、陸臨時軍用気球研究会の時代ではこちらの記事に書いたように
・外国製飛行機購入の決定
飛行機および各種器材の試作
とあります。
1917年に臨時軍用気球研究会では
外国製を模した国産エンジンの試作
までしています。
1919年4月に臨時軍用気球研究会は陸軍航空部となり、甲式一型練習機は陸軍航空部の時に作ったものです。
これらのことから、陸軍の飛行機担当であったご先祖様の仕事は、飛行機の設計士のようなことをしており、研究と試作と改良を繰り返し、Wikipediaにも書かれていたように「航空企業に開発仕様書を数多く提出」して、日本楽器にはプロペラを、ガスデンにはエンジンの開発製造を依頼していたのだと思います。

1911年に作られた会式一号機のWikipediaでは、陸軍の徳川大尉が「設計士」として記載されています。

臨時軍用気球研究会式一号機
分類:推進式 複葉機
設計者:徳川好敏
製造者:臨時軍用気球研究会
運用者:大日本帝国陸軍
初飛行:1911年(明治44年)10月13日 所沢
会式一号機(かいしき いちごうき)は、1911年(明治44年)に日本で製作された飛行機の通称である。
開設当初の所沢飛行場に在った飛行機は、フランス製「アンリ・ファルマン」(ファルマンIII)複葉機 ・「ブレリオ」(XI-2 bis)単葉機 、ドイツ製「ハンス・グラーデ」単葉機 ・「ライト」型複葉機 の全4機の輸入機だけで、頻繁に練習が始まるとこの4機は酷使されすぐに飛行機が不足した。このため1911年(明治44年)4月、同研究会の事業として新しい飛行機が製作されることになった。

前述の日本初飛行の公式記録を持つフランス製1910年式アンリ・ファルマン複葉機を参考に設計されたが、ここまで同機を何度も操縦していた徳川大尉によって翼断面の形状・面積の変更と、各部を流線形にして空気抵抗を減らすことなど幾つかの変更が加えられ、機体の強度と上昇力・速度の向上が図られることとなった。材料などは全て国内で調達されたものの、当時の日本の工業水準はまだ低く充分な加工機材も無かったため製作は主に鋸等による手作業で進められた。

製作は同1911年7月より所沢飛行場の格納庫内で開始され、10月初め頃に完成、 同10月13日、大尉自らの操縦によりテスト飛行が行われ、高度50mで 時速72km/h,(最高高度は85m)と良好な成績を記録し、操縦性もファルマン機より高く評価された。
設計・製作段階から徳川大尉の功績が大きかったため、当時一般には「徳川式」 と呼ばれ、その後は主に操縦訓練や空中偵察の教育などの目的で使用された。

このように輸入した飛行機を参考に、陸軍の飛行機担当では自ら飛んだ感覚を元にして設計に改良を加え、ノコギリ等の手作業で機体を制作した、という記述です。会式一号機は日本初の国産軍用機です。
当時の陸軍飛行機担当では、飛行機のエンジンなど各種機材の試作から機体全体の設計、機体の制作、そして飛行といった、飛行機に関しての全体像と、流れ、細部に至るまで一貫した仕事として飛行機と向き合っていたことになります。
飛行能力のあるなしは置いておいて、ですが…。

機体の特徴は会式一号機も甲式一型練習機と同様に、複葉機といって主翼を2枚以上持ち、揚力を利用した設計になっています。

飛行機の発展当初においてはエンジンが非力で速度が小さく、そのため機体を飛ばすのに必要な揚力を確保するには翼面積を大きくする必要があった。だが当時の翼は布張り木製で強度がなかったため、短い翼を上下に配置しその間に桁やワイヤーをめぐらすことで、強度を保ちつつ翼面積を大きくすることに成功した。
引用(複葉機)

この当時はエンジンの馬力が弱く、大きな翼を持つことで揚力を使って飛ぶ必要があったと書かれています。機体も木材や布張りとワイヤーといった、極力金属を使わず重量を抑えた仕様です。
空気の流れの力を大きく使ってはいますが、おそらく当時からプロペラやエンジンにより生み出される隠されたエネルギーも使っていたと推測しています。日本製の飛行機は、フランスやドイツから輸入した飛行機を元に研究して開発しているためです。

このような日本初飛行の時代から飛行機の設計や研究を10年20年と続け、
突然出てきたジェットエンジンや、機体の金属化、巨大化、翼の簡略化など、
どんなにエンジンの馬力が上がったとしても今までの数々の設計や失敗から「鉄の塊の機体が飛ぶのはあり得ない」と胸の内に秘めていた設計者は、私のご先祖様だけではないと思っています。
しかし段々と戦時色が強くなり、機体の開発と生産に追われ、疑問を研究する時間などなくなっていったのでしょう。

現代の仕事は分離されている

そして時代が進むとともに会社の組織は細かく分離され、「自分が携わる仕事の全体と細部」をすべて理解している人はほぼいなくなっているのが現実です。
詳しくは知りませんが、飛行機でしたらパーツ事に、エンジン部門、胴体部門、翼部門……となり、技術別で言えば研究者、設計者、製造者などと分かれているのでしょう。

会社によって名称は異なりますが、私が勤めていた会社では技術別に部署があります。デザイン部門、機構設計部門、機械部門、電気部門、ハードウェア部門、ソフトウェア部門、資材調達部門、営業部門…などと組織化され分かれており、さらにそこから枝分かれするようにグループが分かれ、グループ内でも仕事が細分化されています。
あるひとつの製品を作るプロジェクトがある場合、各部門から人が割り当てられますが、例えばソフトウェア部門だったら人によって扱える技術(言語)が限られており、システムの中の一部しか開発せず、ソフトウェア内だけでも同じプロジェクトである隣の人が開発しているソフトウェアの仕事内容はふんわりとしか理解できない人もいます。(私がそうでした。)
プロジェクトリーダーでさえも全てを理解している訳ではなく、扱える技術は限られていると思います。

さらに機密情報を扱う仕事では、送られてきた仕様書が自分が関わるところ以外は「黒塗り」になっているといいます。
自分が何を作っているのか、何のどこを作っているのかさえ、知らされずに仕事をしているのです。

当時の陸軍飛行機担当のように、輸入する飛行機の機体を決め、機体を研究し、機体を設計し、エンジンやプロペラの試作をし、試作品として機体を組み立て、自ら飛行するといった、全体像を見ながら細部の研究もできるような「ゼロから仕上がりまで一貫して行える仕事」は、現代の大企業ではまず不可能でしょう。
現代のパイロットは飛行機の勉強はするでしょうが、自分が操縦して飛ばしている飛行機のエンジンを作れる人はいないと思います。

こうして、ジェット機が空を飛ぶ本当の仕組みについて、パイロットも知らず、航空関係者も知らずに飛行機を飛ばしていることになります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?