「存在給」という考え方

「あなたへのおすすめ」で表示された岩堀暉久さんの記事を拝読した。

「PLAN75」という映画を見て「人の価値」について考察している彼の文章を読み返しながら、うんうん、と頷く。

役立つことは、確かに「価値」であるのかもしれません。
でも、それが「人の価値の全て」として測られていいのか、と問われれば、僕はNOと言います。
「あなたにあなたでいてほしい」より引用

彼の文章を読んで思い出したのは、心屋仁之助さんがポッドキャストの中でよく話していた「存在給」という概念。

人は、存在するだけで価値がある。
役に立つかどうかは関係ない。
存在するだけでその人がもらえる価値(=自分がもらってもいい収入)があり、それが「存在給」なのだ、という考え方。

この言葉を知った時、頭の中では、「ふーん」と思いつつ、実感として腑に落ちてはいなかった。

だって、そうは言ってもさぁ。
じゃあ自分の存在給っていくらですか?と自問自答した時に、うーん・・・きっと大したことないよね、と思ってしまった自分がいたのだ。

しかし、父が病に倒れた際に、「ああこういうことか」と実感した。

父は癌を患い、手術の後に抗がん剤を服用していた。
苦しい副作用に懸命に耐えながらの治療。
しかし、その甲斐もなく、癌は転移し、最後は自宅で母に見守られながら息を引き取った。

どんどんと痩せ細り、歩く足取りもおぼつかなくなり、最後はベットで寝たきりになってしまった父。
父はいつも、病院の送り迎えをしたり、お世話をしたりする際に「いつも悪いね、ありがとうね」と、申し訳なさそうに私に声をかけてくれた。

その度に、思っていた。
そんなこと、思わなくていいのに。

歩けなくなっても、寝てきりでも、父が生きていてくれて「おお、ふみ、きてくれたのか」って言ってくれるだけで、私にはよかったのだ。

そして、思う。
これが「存在するだけで価値がある」ってことなんだ、と。

生きていてくれるだけでいい。

晩年は家の中で歩行器を使い、痩せ細った背中を丸めるようにして、一歩一歩ゆっくり歩いていた父。

かつては恰幅がよく、体も大きかった父が、日々衰えていく姿を見るのは家族にとっては辛いことでもあった。

しかし、実家に帰れば「仕事はどうだ?太郎(私の息子)は元気か?」と笑顔で声をかけてくれる父がいることが、私には大切なことだった。

父が病になって初めて実感した「存在給」の本当の意味。
全ての人には「存在給」があるのだ。
社会的に役立つとか、貢献できているとか、目に見えることだけに囚われていると、見逃してしまう価値。

あなたが、そこにいてくれるだけでいい。

毎日健康で、何不自由なく暮らしていると、ついつい忘れてしまうそんな想いを、岩堀さんの記事を読んで、思い出すことができた。

素敵な記事に感謝🙏


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