2022/04/30:

ずっとテレビを観てないから今はどんな番組になっているのか知らないが、島田紳助の頃の「行列のできる法律相談所」は好きだった。ある問題が提示され、Give me a truth!って声が流れたあとに弁護士たちの諸見解が出てきて、大抵の場合それらは互いに齟齬していて、たちまち法解釈にかんする論争が起こって、たまにその過程で意見を変えちゃう弁護士すらいて、最後には(たしか)多数決みたいなかんじで結論が出る。普遍的真理などなく解釈があるのみで、その諸解釈の中で「正しい」とされるものは数の論理による淘汰で決定されちゃったりする、という構図がアイロニカルに提示されて(?)いたのが好きだったのだと思う。もちろん当時はこんなふうに捉えてはいなかった。

さて、最近かかりっぱなしの話題の続き(以下は断片的メモ)。

「魂」というときわれわれは何を言いたいのか。あるいはより適した術語はどのように考えられるのか。「魂は重心そのもの」である。重心というのは、物理的には、たとえばリュックを背負うとき、自転車に乗るとき、リュックを背負いながら自転車に乗るとき、それぞれの場合で変動するある点のことだ。それを捉えそこなうと均衡、準安定状態は崩壊し、不安定な事態に移行してしまうようなある点。ドゥルーズ=ガタリがいう「点」というのはこの「魂」であることが多いとは思う(「スピードは点を線に変容させる!」=スピードは魂に絶対的脱領土化をもたらす)。要するに、重心の中でもとりわけ有機体(人間)の重心のことを「魂」という、と考えてよいのだろう。ここが「魂」という言葉に対する違和感の原因で、もっとこう、領土性が潜在的に含み込んでいる脱領土化のベクトルの先触れというべきか、そういうニュアンスを響かせた言葉のほうが適している。

で、重心は、最終的には個体性の中心であって、この「個体」というのはたとえば「人間の身体」のことではない。つまり「主体」ではない。というか「個体」は、さっきのリュックと自転車の場合だったら「リュックと呼ばれている要素を構成する諸成分-身体と呼ばれている要素を構成する諸成分-自転車と呼ばれている要素を構成する諸成分(厳密には他にもあるだろう)」というようなその場の構成要素の総体によって決定される重心、を中心として形成されていくものなので、重心が「個体性の中心」であることは当然なのだろう。だからおそらく順番は、①その場の構成要素の総体が飽和(閾の出現)という形で出揃う ②重心(魂)の確定 ③個体化のプロセスから準安定状態へ という感じになる。

魂が重心そのものであるということは、「リュック-身体-自転車(厳密には他にもあるだろう)」というサイボーグにはそれ固有の準安定状態があり、「魂」があるということになるのか。ここで注釈しなくてはならないのはこれは汎心論ではないということで、むしろ逆に有機体の「魂」という観念なんて結局は権力によって押し付けられた「正しい」重心でしかない、と言った方がニュアンス的に適切だ。

(しかたなく旧い言葉を使うが)「魂のステージが低い」こと自体は問題の本質ではない。そうではなく「魂のステージを一緒に下げようとしてくるヤツ」が有害なのである。つまり忌避すべきは(権威そのものではなく)権威主義者だ。「魂のステージが低い」ひとはかなりの割合でこういう風に洗ってない手で肩を組もうとしてくるから、この点に気づくのがかなり遅れた。しかし思えば「魂のステージが低い」けどその低さゆえに面白い人物というのは実は存在していて(ニーチェが最たる例だ)、そもそもわれわれも「自分は魂のステージが高い」と豪語できるほどの自信なんか別にないのだった。それこそニーチェ風に言えば、超人になろうとする意志が大事なのであって超人「である」かどうかはどうでもいい。

今日のまとめ:したがって、われわれがいま考えている言葉の定義は、「重心を確定する際に外的な力(権力)に隷属しない絶対的高貴さとその必然化の機敏」というふうになると思う。この「機敏」、つまりその都度高貴な確定に至る際のスピード感の重視が大事。そしてこれは概念だけでなく「概念化するということ」それ自体にも含み込まれる。ここをもっと掘るならおそらく『スピノザと表現の問題』や『襞』にもあたらなくてはならないが、もしかすると「速度感ごと圧縮して外部化しないと広く長く使えない」とかそういう感じじゃないか。普遍性はいらないが広範性は重要だし、老いさらばえ低速化しても高貴な決定をし続けるには、思考における杖ないしアスレチックたる概念を、この速度ごと構造化・外部化されたものにしなくてはならないだろう。だから、これはまさにわれわれの問題である。概念の創造行為自体が概念と見分けがつかなくなっていく。まだいける。続く。

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