2022/05/07(2017年):草稿?

「人間として」尊敬するひと、というのは存在しなくて、「組織人(会社員)として」とか「アーティストとして」とか「研究者として」とかで限定すればようやく人を尊敬できる。生き様をトレースすることはできないけど、仕事の方法を真似て参考にすることは可能だ。それに、生き様をトレース——そんなことはできないのだが——しようと可能な限り接近すると、そのうち吐き気がしてくる。感情的な嫌悪より前に、生理的な「無理」がくる。他人の生き様、他人の秘密は、絶対にこちらを不快にさせるものだ。だから基本的にはなるべく知りたくない……はずなのだが、しばしば逆に病みつきのようになってしまったりもする。これはなぜなのか。

ドゥルーズは、他人の魅力は「しるし」つまり「記号」として発信されていて、それを受け取って反応する場合は仲良くなるし、受け取られない場合は仲良くならないと言っている。魅力的に映る人の、ふとしたときのしぐさや言い回しは本当に魅力的だ。これは例えば「(対象として)エロい」とかではなくて、「滑稽(イジりがいがある)」とか「印象的」と言った方が適切だ。

ところで、「記号」を ①「受け取ない場合」と ②「受け取ない場合」、そして ③「受け取られない場合」だと、結論がそれぞれ変わってしまうから注意しなくてはならない。

まず、①なら「受け取れるはずのものを意図的に無視した」というニュアンスを含む。だから「受け取る側の意志によって友達を選べる」という結論に導かれる。

次に、②なら「(なんらかの要因で)受け取ることが不可能だ」という意味になる。これだと「(原因はなんであれ)記号のやりとりは受け取り手の意志(あるいは能動性)ではどうにもならない」=「絶対に友達になれない人がいる」という意味になるが、「可能/不可能」という区別があるという点で、次の③とも異なる。

最後に、③は②に極めて近いようにみえるが、重要なのは、②が「受け取れる」の否定形なのに対して、こちらは「受け取られる」の否定形である点だ。「受け取れる」は可能かどうかの話、つまり人間の意志が関係する話だが、「受け取られる」は出来事の記述だ。「受け取られる」では発信する側の意志も、受信する側の意志もさして重要視されない。そういうことが起きたかどうか、これだけだ。つまり②と③の違いは、②が「絶対に友達になれない人がいる」を導くのに対して、③は「友達にならなかったのはたまたま機会がなかったから」という曖昧さを(あえて)残した結論に至るのだ。

さて、ドゥルーズは以上の三つのうちどのニュアンスを含ませていただろうか。実は当該の発言は「アベセデール」というインタヴュー記録に残っているものなので、発言内容は書物ほど推敲・検討されていないとも考えられる。だからこの限りでは解釈可能性が僅かながらある。そのなかで、自分は間違いなく③だと思う。なぜなら、自分の知る限りでのドゥルーズは、丹念に準備を重ね、その上で最後の最後に出現する偶然性に「賭け金を置く」ような人物だからだ。

ドゥルーズに対する「彼の思想には実存が感じられない」という批判は、その生涯にわたって、彼が意志というものをほとんど信用しなかった点に起因する(多少の変化はあったかもしれないが)。初期の著作からずっと、意志が否応なく発散してしまうようなモチーフ、例えば海や無人島のような原風景が一貫していることはすでに指摘されてきたし、『差異と反復』では意志の根拠である同一性を告発して、差異を根本的に問い直した。後年ガタリと仕事をするようになると、『アンチ・オイディプス』では精神分析批判を通して既存の主体モデルを破壊したし、続編『千のプラトー』では、風に吹かれて漂うように生きる者たちの論理を記した。

ではドゥルーズには意志らしきものが全くなかったのか。そうではない。きっと、彼は単に「なるべく準備して掛け金を置く」以上のことをしなかったのだと思う。非常に狡猾で入念だが、しかし最後には偶然を生きるギャンブラーなのである。彼は蜘蛛のように「じっと待つこと」と言っていた。蜘蛛の賭けは「どこに巣を張るか」だ。

どんなギャンブラーもまったく希望を抱かないことはない。だから彼は一人さみしく嘆くし、他人の嘆きも好きなのだ(「嘆く女は芸術だ」と言っていた)。小泉義之は晩年のドゥルーズに「絶望」を看取していたが、そうなのだとすれば、ドゥルーズもどこかに小さな希望を抱いていたのだろう。でなければ絶望などしない。

さて、彼の発言の意味が③であるならば、少し付け足しながら、以下のように筋を通せる。

「誰か」ではなく「誰かの生き様」が(つまりその者にとっては非-能動的に)発信する「しるし」が受け取られると、そこに友愛の関係が生じる。これは出来事である。しかしこれは「全くの」偶然の産物ではなく、なんらかの前段階によって蓋然性が高められることで生じる出来事であるだろう。ではその「なんらかの前段階」とは何か? 少なくとも、それが能動的に準備できる限界は、注意深く「しるし」を見誤らないように待つことであろう。では最後の偶然性、つまり「しるしが受け取られる」という出来事をもたらすのは何か? それはおそらく「分身性」だ。「私は彼らに、彼らは私に言うべきことがある。これは〔互いの〕考えの共通性ではない。ここには一種の秘密がある。」友はみな自分とは異なるが、ありえたかもしれない自分の姿にどこか似ている。思えば出会ったときからそうだったのかもしれない。自分があのとき選ばなかった道を生き、あのとき言えなかった言葉を発したものだけが発している「しるし」。それが友愛の先触れだ。そこから友を通して、もう一つの生き様を生きなおす、〈逆行〉する。運命を肯定するために。友を利用し、そのなかに潜り込む。ただし帰ってこなければならないということもまた運命である。友は自分ではないから(ドゥルーズは「友愛とは不信である」とすら言っていた)。しかし〈逆行〉を経たあとには何かが変わっている。友の固有名が、かたわらに佇んでいる。

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