2022/05/02:

変な天気だナァ、みたいなことを、銭湯の前にいるおじいちゃんAがつぶやく。それがAの独り言なのかどうかはこちらの行為次第で決まるような、放りだされた言葉。それを拾って、田舎の手癖だけで編成されたような言葉をAに対して投げかけてみる。少し驚いたような間があいて、Aはまた、にへにへしながら何か言う。こちらもまた何か投げる。適当に区切りをつけて銭湯に入った。

風呂上がり、脱衣場。20円で動くドライヤーに硬貨を入れると老朽化からか投入口が狭まっていて、つっかえる。横からおじいちゃんBが声をかけてくる。「それなァ、番台さんに言わなきゃ駄目なんだ。」そんなことをする必要はなく、つっかえた10円硬貨を、てもちの別の硬貨で押し込んでやると使える。すると、「おーアンタ、アイデアマンだね!名前なんて言うんだ、スティーブか?」と言ってきた(今気づいたがあれは多分ジョブズにかかっていたのだろう)。その後また手癖だけで編成したやりとりを少しして、脱衣場を出た。

老人は構造物に近い面がある。イメージ喚起的に言えば、遊んでもらうのを待っているすべり台やジャングルジムである。若者に話しかけられるとよろこぶのは、それが遊具としての力能が最も満たされることだからだ。このよろこびは、おそらくだが、たとえば血の繋がった孫と遊ぶのとは全く違うよろこびなのだと思う。匿名性ゆえの世俗的な浅さが、「人間として」の堅苦しい相互尊重から解放する。

老人とのとるに足らないコミュニケーションのただなかには、一種の匿名的非人間的関係がある。しばしば、このような老人とのやりとりが、自身のアイデンティティにナーバスな若者たちをたじたじにするのは、この匿名性、非人間性への恐れが理由だろう。しかしこれはこれで結構楽しいと思うし、ある程度なら「適当なコミュニケーション」の方法論として拡大できる気もする。いい日だった。

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