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住むということ。

上京して、あっという間に1年半が経った。私は全くこの街に住んだ心地がしない。ネガティブな話をしたいわけではなく、私にとって「住む」がなにを意味しているかについて話したいと思いながら、始めることにする。

地元から出て、福岡4年⇨ベルギー1年⇨東京2年目に突入。といった具合に進んできたが、今ほど住んだ心地のしなかったことはなかった。  

たしかに福岡に住み始めたときを思い返してみると、全然好きじゃなかったけれど、それはただ単に「知り合いが一人もいない環境で生きること」への免疫がなかっただけだと感じる。今となっては福岡は私の移住したい街ランキング首位独走中である。

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不自由なく欲しいものは手に入ったし(田舎出身の私からすれば、服屋さんも本屋さんもたくさんの種類が揃っていた)、ご飯はおいしかった。そして、友人にも恵まれていたし、知り合いもたくさん増えた。どこにいても、ひとりぼっちだと感じることはなかった。  

ベルギーで住んだ1年間はどうだっただろう。福岡ほどたくさんの友人はいなかったけれど、1年間の終わりに私がつぶやいた言葉を振りかえってみるといかに幸せだったかがよくわかる。

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近所のカフェの店員さんと道で会って、OH! HI! と言ってくれたり、来始めた頃は冷たかったパスタ屋のお姉さんと世間話をするようになったり、「帰国するときは教えてね」とフリッツ屋のおじさんが言ってくれたり、大好きなカフェのオーナーのおばちゃんが「もう帰国しちゃうから」って大量のクッキーをくれたり。住むってこういうことかなあ。

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これが、そのもらったクッキー。(コーヒーを頼むとついてくるクッキーだったから、完全に思い出の味。)

大好きな場所がたくさんあった。大好きな場所には、そこにいる誰かの存在があった。

私が今住んだ心地がしないのは、この街にある、この街にしかない、なにかしらの存在に一切の愛着を持っていないからだろう。きっとここを去ったとして、私が懐かしむのは、「昔からの友人と集まれた時間」と「暇しないほど様々な美術展に通えること」くらいだ。

もちろん労働という私的義務が上京と同時に私に降りかかり、心の豊かさを結果的に失っていっているというのは、否定できない。

ただ関係の希薄さが正とされ、近隣の人の顔や名前も知らず、挨拶もろくにせず、通勤路ですれ違い大量の人々には思いやりもなく接し(我先に電車に人を押しやって乗る様子からは、もはや接しているというより、ないものとして扱っているようにすら感じる)、これでいいのだろうかと、やっぱり疑問に思う。この感じ、私、全然好きじゃない。

ここにしかないものなんて、実はないのか。はたまた、希薄さが正とされる地での生き方を私が知らないだけなのか。

とにもかくにも、振り返ることのできる愛のあふれた日々を持っている私は幸せなのだろう。じめっとしてしまったけれど、東京に住んでみたかったのは私だ。

この何もかも有り溢れている街を一通り経験したら、次はどこに行こうかな。



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