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感情は痛みを伴う

“クールだね”、“いつも冷静だね”、“何考えてるか分からない”、“本当に嬉しい(or悲しい)?”

これは全て私がよく言われてきたことだ。
私は考えていることが表情に出にくいらしい。
時々かなり動揺しているときもあるし、悲しいと口数が少なくなるし嬉しいと口数が多くなるし、人から言われるほどクールでも冷静でもないはずで、喜怒哀楽も人並み程度にはあると思っていた。

しかし高校に進学してから自分は人よりも鈍感なのではないかと思えてきた。
何事においても人より反応が薄いし、良くも悪くも驚くことが少ない。
大変なことが起こっても無駄に焦ったりしにくいという点では良いのかもしれないけれど、そのぶん喜びや楽しさを表情で表すことができない。

原因として思い当たることは小中学生のころのできごとだ。
小学生は思ったことをなんでも口にしてしまいがちで、悪気はなくても他の人を傷つけたり不快に感じさせたりしてしまうことが多々ある。
内向的で教室の隅にいて友達が少なかった私は、さほど話したことのないクラスメイトの些細な発言にショックを受け引きずりがちだった。
中学生になると人間関係が複雑になり、自分の属するコミュニティ以外の人の悪口を言ったり、教室の隅にいるような子をからかったりしている人たちを見て嫌な気分になったし、自分がその対象になったときはかなり傷ついた。

いつしか心ない言葉の意味は考えないようにしていたし、傷つくようなことがあってもそれを悟られまいと全く動じていないように振る舞うようになっていた。
そうすることが自分を守ることだった。
だんだん何を言われても嫌な気分になったり傷ついたりしなくなっていった。
感情が乏しくなっていったのだと思うが、当時はそれで強くなれた気がしていた。

周囲の人の感情に影響を受けやすく内気で臆病なので、人が機嫌が悪そうなだけで悪いことしてしまったかななどと考えてしまうし、できるだけ人に不快な思いをさせたくないがために顔色をうかがってしまう。
傷つきそうなことを言われそうな場面に遭遇したら、前もって構えてダメージを食らわないようにしていたから、周りの動きに敏感になって時として挙動不審になっていた。
そのことに疲れて自分の感情の起伏をあまり作らないよう心がけるようになったのも関係していると思う。

簡単に言うと傷つくのが怖くて、自分の感情のセンサーを鈍らせていたのだ。
心のダメージが最小限になるのと引き換えに、私は表情と感情を犠牲にしてしまったのだと思う。

高校、大学と進学し、周囲も心ない言動をすることは少なくなったし、よい友達にも恵まれ、嬉しいとか楽しいとかいう感情をそれ以前より感じることが増えた。
自分自身も精神的に強くなったのか、悲しいことや辛いことも涙を流すことはあれど受け止めることができるようになった。
少しずつ表情や感情を取り戻すことができてきたのかもしれない。

感情というのは痛みを伴うのだと思う。
傷ついたときは心にズキッと響くし、悲しいときは心がどっと重くなる。
嬉しいときは心がじんわり温かくなるし、楽しいときは心までもはしゃいでいるのを感じる。
感情は何かしらの刺激を感じて発生するものであって、良い刺激も悪い刺激も心にとっては一種の痛みなのではないのだろうか。
私の感情が人より乏しいのはきっと痛みを感じるのを怖がって自分を守っていたから、と考えれば納得がいく。

今でも感情を表情に出すのは苦手だし、上手に笑うことはできない。
相変わらずクールだとか冷静だとか言われるし、実際に対人関係ではそうなんだろうなという自覚もある。
(一人で体感するもの(例えば映画や歩いているときに視界に入る景色など)に関する感覚は鋭いほうだと思う)
私は人より痛みに鈍感にできているから、小さな心の動きを気にするようにしている。
感情を表情で表すことも苦手だから、言葉でその小さな心の動きを表現する。
それが私の意思表示であり感情表現である。

言葉という表現方法がある、ということは高校の部活で気づいたこと。
毎回の練習後のミーティングで、挙手して部員全員の前で自分の考えを話す(話す頻度は自由)という時間があり、そこで自分の考えを伝えたところ他の人から「結構熱いこと話すじゃん」と言われたことがきっかけ。
私は何も考えていないように見られがちだけれど、言葉で伝えれば気持ちをわかってもらえるんだ、と思ったのだ。

表情も豊かな方がいいから、表情でも気持ちを表せるようにしていきたい。
しかし冷たく見られようと表情が乏しかろうと、私には、言葉がある。
想いを伝えられるよう、言葉の引き出しを増やしていきたい。

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