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1108「おじさんの業病」

台湾で仕事をしているが、昨日はわりと一日中日本との会議をやっていて、忙しくて昼飯も食えず、台湾感のない1日を過ごした。夜はお世話になっている会社の方々と客家料理を食いに行った。糖質はほぼ食わずに乗り切った。それなりの量の酒を飲んだ。

台北行きの飛行機で読むと宣言していた十二国記の新作が、一行一行が尊いほど素晴らしくて、先に買っておいた全4巻中の2巻をそろそろ読み終わってしまう。明日日本に向かう際の飛行機で読み終わって、着陸したら今日発売したての3巻と4巻を即刻購入して読むようにしようと思っているので、ペース配分が難しい。なかなかそういう本は無いものだが、ページをめくるごとに完結に近づいてしまうわけで、終わって欲しくないなあと思う。

その一方で、十二国記は、18年ぶりの新作なので、私自身が18年分年を食ってしまったところもある。18年前は、こういう作品を「誰かがつくったもの」として捉えることはなかったが、作り手としての自意識とか、何かを見たり読んだりするときにどうしても入ってくる作り手としての目線がどうしても入ってくる。そういう意味では、これだけの世界を文章だけで構築しているということは驚嘆に値すべきで、音楽なんかと同様に、文章というのも全くごまかしが効かない芸だなと思う。

ちょうどまた、業界の「自称技術屋」みたいな人のダサいマウンティングストーリーを耳にしたのだが、デジタル技術的なものって、具体的に誰が何をして成立しているのかが、専門家以外にはブラックボックスになるので、音楽とか文章のように、剥き身のコンテンツとして勝負するのではなくて、わりと、口だけ達者で何もつくれない人がその道の権威として目立っていたりする。私もその点広く浅い人間なので、いろいろな専門分野を掘っている人に比べたら枝毛のようなものだが、それにしても、この領域、技術クリエイティブの世界というのは、作り手の手技を受け手が感じることができない場合が多いので、エンドユーザーをだませてしまう構造になっている。正当な競争が行われない部分が結構ある。

そう考えるとつくづくストレスの溜まる世界で仕事をしているなと思うし、周囲には逆に正当に評価されていない人がたくさんいるので、どうにかそれを正規化できないものかなと思う。自分たちの仕事を代表してメディアに出てしゃべっている人にダサいことをされると、業界や業種がダサくなってしまうわけで、本当に迷惑な話だなと思う。

私はいま40を超えて、周りには、いろいろと表に出て発言したり、責任のある立場にある人たちが出現しているが、すごくカッコ良い大人だなと思っていた人が、突如ダークサイドに落ちてズルをし始めるような状況が結構多発し始める。通らない理屈を感情で通すとか、子供の頃なら怒られてきたようなことが通るようになってしまったりする。ズルをしても誰からも怒られない状況というのがそれを許してしまうのか、そうであるとして、その人たちがそもそもそんなにダサい人たちなのだとも思えないし、そういうのは中年という世代に陥る避けるのがとても難しい成人病なのかもしれないなと思う。

なぜ、私たち「おじさん」は、徐々にダサいことをし出してしまうのか、徐々に腐っていくのか。世の中にはダサくなることや腐っていくことに対する安全弁がたくさん設置してあるから、それで成立してしまっているが、40代を生きる自分でも、余程、ダサくなることから走って逃げていかないと波に飲まれてしまうのではないかという気がする。「おじさん」になるということは恐ろしく、黒い穢濁に飲まれないために戦い続けていくということなのだなと思ってしまう。これは人間が生きる上で背負ってしまっている業病みたいなものなのだろうか。

そしてこれから、それに飲まれていく人がきっと周りに増えていって、次第にそこから逃げることがさらに難しくすらなるのかもしれない。怖すぎる。ダサい人になりたくない。

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