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0629「『発達障害』の救い」

昨日テストするのを断念した機材を操作するための部品が届いたので、それを使っていろいろやってみたら、中に入っているOSが特殊すぎてうまく行かなかったので、思い切って分解してみた。分解してみたら構造は理解できたので、東京に行ったら秋葉原で部品を買ってどうにかしようと思っていた矢先、機材の一部を長男がいじっていたらしく、壊された。本当に困る。複数入手していたので壊されたやつは諦めた。仕方ないので、一通り叱った後、大人になったらプレミアム焼酎を買って返すということを約束させた。焼酎くらい屈託なく入手できる程度に苦労しない生活を送ってくれればと思う。何しろ、子供に大事なものを壊されるといろいろ頭の中が複雑なことになる。怒るべきだが、許すべきだし、怒らないわけにもいかないが、怒り続けるわけにもいかない。ので、うまいソリューションを見つけなくてはいけなくなる。儀式として「叱る」というか。

ワシントンが桜の木を切ってしまったときのワシントンの親父もこういう心境だったのだろうかと思う。一方で、かなり反省していた様子だった長男が、数時間後にケロッとしていると、「くそ! もうちょっと、明日いっぱいくらいまで反省しやがれ!」とか思う。

今日は、最近たまに見かけるこの記事をちゃんと読んでみた。

一度読んだことがあったのだが、スルーしていた。断っておくと私も35を超えて発達障害という診断を受けた人間だ。

話題になっているこれについて、発達障害の人の視点から何か書いているのをあんまし見たことがない。題名の通り、発達障害な小学4年生がつくった資料らしい。

なんで一度読んだのにスルーしていたのか、というとそれは、だいたい全体的に自分にとって当たり前のことしか書いていなかったからだ。

極端に不器用だし、チックみたいのもある(妻に指摘されるまで知らなかった)。相手の気持ちを想像するのは超苦手だし、感情的な表現を理解するのにすごく時間がかかる。思いついたらすぐに動いてしまう。気持ちの切り替えがすごく難しい(30年以上粘着したりする)。「普通できるよね」とか「普通わかるでしょ」ということができない。自分に自信がない。生きにくい。解ってもらえない。

みたいなことは、自分にとって当たり前のこと過ぎて、一度これを読んでも「そだねー」としか思わなかった。

そして、この記事がとても大きな話題になっていて、人々が感心しているのを見て、改めて読んでみた。

よく考えると、それだけ、そういうのって常識ではなくて話題にして驚くべき話なんだなということで、そして私自身、自分が発達障害と診断されるまで、あんまりこのへんを言語化できなかったというか、ただただ、世間とのズレにちょこちょこ苦しみながらぼちぼちやっていた。

で、改めて読んでみて何を思ったかというと、あまり想像できないかもしれないが、「うらやましい」と思った。当事者ではない人にとっては「何がうらやましいんだよwww」っていう話かもしれないが、私はこの人が、小学4年生で、これだけこういった自分の「特徴」(まああんまり、「障害」「障害」って言われても困るので、この言葉を使う当事者は多い)について言語化できていて、周囲に対してきちんとそれを伝えることができているということが羨ましい。

私の場合、両親がどう思っていたのか知らないが、たぶん、結構見て見ぬふりをされていたように思う。今から思うと結構明らかにそういう傾向がある子供だったはずだし、母親はカウンセリングの勉強などもしていたので、知識として無かったはずはないのだが、前述の通り、自分がチックを持っていることも、ずっと無自覚で、妻と結婚して指摘されて知った。「何で知らなかったの?!」と言われた。どうも私は幼い頃から、そういう、「いろいろ普通にやれない」感じやら身体的な追いつかなさを、「見てみぬふり」されてフタをされていたような気がするのだ。

父親は、診断を受けていないが、どう見てもその傾向がある人なので、そもそもそういうノリが家庭を包んでいた可能性もある。私は発達障害の一種とされる、アスペルガー症候群=自閉症スペクトラムと診断されているが、遺伝的要因が関係していると言われているので、まあ、そういうことなのだろう。

で、この、「なんかよくわからない状態でどうにか頑張る」っていうのがとても辛いのだ。私は前述の通り、35歳を超えて、妻に勧められて心療内科に行って(妻は、精神病院の看護師だった)、大学の研究所みたいなところで長い知能テストみたいなやつを受けていろいろ検査したら、「はい。あなたはもうバリバリのアスペルガーです。」みたいな診断を受けた。

もうそのときの心境ったらない。どう思ったかって、めちゃくちゃスッキリしたのだ。

「そうだったのか。そういうことだったのかーーーーー!」

と思った。そして、この記事にあるような発達障害とはなんぞや、という定義を「自分のことだなあ」と思いつつも、きちんと理解した。

ずーっと、謎の息苦しさを持って生きてきて、「しんどいなあ。何でだろう。自分は変な人間だから仕方がないのか。つらいなあ。」と思ってきたところに、「実はあなたはこういうジャンルの人だったんです。」という「定義」がついた。それはつまり、30年とかずっと困ってきた自分自身の取扱いについて、35を過ぎてやっと、「自分対策マニュアル」に出会ったということなのだ。この「病名」さえあれば、対処のしようがある。周囲の人にも、自分の特徴を説明して、理解を求めることができる。会社で仕事をしたりする中でも、結構しんどいことがある。

たとえば、私は「ビデオレター」というものが大の苦手で、会社を辞める人へのビデオレターを撮影しますよ、みたいなときに、どうしても嫌で、拒否をしたことがある(今もわりとする)。そういう行動は、「病名」がついていないと、「わがままを言うなこの空気読まないハゲが」みたいなことになってしまう。実際に「空気を読んでくれ」と言われたことなんて何回もある。逆にビデオレターでヤケクソになって狂人を演じてドン引きさせたこともある。

ところが、診断を受けてからは、「ごめんなさい。自分にはこういうところがあるのでビデオレターはどうしても無理です。容赦してください。」と、アスペルガーについて書いてあるURLを貼って説明すればそれで納得してもらえる。

幸い、仕事をちゃんとして役に立っていれば良い場所で働いてきたし、自分のそういう特徴を知ってもらえれば知ってもらうほど、良い意味で「忖度」してもらえるので、すごく楽なのだ。甘えているようで心苦しいが、もうこれは、この小学4年生の記事にもあるように「あの人は目が悪いから」とか「耳が悪いから」とかと同じなので、わかってください、ということになる。

診断を受けて、自分が発達障害であると自覚できるまでは、すべてが「自分のせい」だった。空気を読めないハゲである自分が悪かった。しかし、診断を受けてからは、「特徴(障害)のせい」にできる。他者にもそれを説明できる。「概念」があるから、説明しやすい。これは、自分にとって人生がガラッと変わるレベルの変化だった(たかだか6-7年前の話だが)。

だから、この小学4年生を「うらやましい」と感じたのだ。この人は、今後いろんな問題に直面するが、都度都度人に説明する概念と言葉を持っている。自分のせいにして苦しまなくて済む。自分が30年以上ああだこうだ悩んできたことが、既にクリアになっている。これだけ上手にまとめられているのなら尚更だ。なので、「うらやましい」というか「おめでとう」だ。

この発達障害という「性格」なのか「障害」なのかなんなのかよくわからない困った何かについて、人知れず困っている人はたくさんいるはずだが、そんな人たちにとっては「発達障害」という概念ほど救いになるものはない。「発達障害」という言葉があって良かった。

今日、40代も中頃になる友人が、自分がハゲてきていることについて絶望しているツイートを目にしたが、私などは22からハゲ始めていて、25の段階で完全にハゲていた。青春など無かった。40代中頃までハゲなかったんだから良いじゃないか。チャンチャラおかしい。どちらかというと、ここまで頭髪を維持できて「おめでとう」だよ。と思った。早いほうが良いものと遅いほうが良いものがある。正直、この最後の段落は書かないで良かったかなと思う。

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