0910「 #noteのつづけ方 」

#noteのつづけ方 というのを公式が募集していた。続けているか続けていないかでいうと、10ヶ月くらい毎日書いているので続いているということだろう。ので、たぶんこの話題で書く資格は無くもないだろう。

ただ自分の場合、「続け方」というよりはもはや続けないといけないという強迫観念に追われて仕方なく続けているところがあって続けている感がある。第一、別に書くことなんて無いのだ。書くことも表現したいことも無いが、「書かなくてはいけない」という前提だけがそこにあって、かなりの部分嫌々書いているところがある。たまーに書くべきことができてちゃんと書くと、そこそこ読んでもらえるが、そうでないものはそうでないなりの反響しかない。妻などには「フォロワーが25000人以上いるのに、♡が10くらいとかってどうなの?」と言われる。続ける意味もそんなにあるわけではないのだ。

しかし恐らく、 #noteのつづけ方 について語るとき、それは運営的にもこのよくわからない私の「毎日なんか書く」という奇行を肯定してくれて、そういう人が増えると良いよね、ということで募集しているわけだから、私がどういうノリでこれを続けているのかを書く。そもそも、書くことがないからこういう明確なお題を求められると結構助かる。書くことがあればまあ書けるので、1日分楽できるから嬉しい。

で、私がこの10ヶ月毎日このうんこ日記をnote上で続けているモチベーションというかノリで言うと、最も似ているのが「洗い物」だ。

私は家事の中では洗い物担当なので、毎日洗い物をやっている。洗い物っていうのは、まあそんなにクリエイティブで刺激的な仕事ではない。しかし、汚れた食器がそこにあったら洗わないとまずい。使える食器がなくなる。それは困るから仕方なく洗い物をやる。この「仕方なさ」がまず共通している。「洗い物をしないと気持ち悪い」という回路が脳内にできてしまっている、つまり、「仕方ないけど毎日やらないといけないこと」化してしまうと、毎日いかに疲れたり、酔っ払ったりして帰ってきても、脳のTODOリストに深く刻まれてしまっているので、「仕方ない。ヘロヘロだけど洗い物するか・・・」ということになり、洗い物をすることになる。仮にそこで洗い物をしなかったらどうなるかというと、案外気持ち悪くて眠れなかったり、翌朝罪悪感と面倒臭さで辛くなったりする。いかに後回しにしようが、洗い物はやらなくてはいけないからだ。

洗い物はやらないと大変なことになるが、noteなんて、やらなくたってどうってことはない。そこで、noteを洗い物化する必要が出てくる。noteを書くという作業が洗い物化すれば、noteを続けることができるようになるということになる。

そこで重要なのが、洗い物という行為が生み出すグルーヴ感というか、気持ち良さだ。前述の通り、洗い物は別にクリエイティブではないが、1つ1つの食器をしっかり洗っていくことで確実に終わりに近づいていく。スタートとゴールがある。徐々にゴールに近づいていき、「終わった!」というカタルシスが多少ある。多少。良い意味での「こなす」感がある。

私はいわゆる「クリエイター」みたいな仕事をしているので、職人として基本的にお仕事を「こなす」というのは良くないことだと教育されている。最大限クオリティを高めるために最大限の努力をするのが職人というものだ。仕事をこなしてどんどん処理していくような奴は職人ではなく機械ではないか、みたいな考え方だ。

しかし、そんな私でも生活の中の行動に何でもかんでも真面目に取り組んでいたら疲れてしまうので、「こなす」ようなこともある。その最たるものが洗い物で、洗い物というのはある種の「こなす喜び」だ。

そしていつしか、誰に課されたでもない義務感と、日付的な欠番をつくってはいけないという強迫観念から、私はこのうんこ日記を書くという行為を「こなす」ようになった。何か表現するとかそういうのではなくて、書き始めて書き終わることだけが目的化している状態。こうなると、「クオリティとかどうでもいいからとにかくこなす」というマインドセットになる。なんでも良い。書けばTODOリストから1つやることが減って気持ち良いのだ。

ところが、「こなす」マインドセットで毎日続けていると、予期しないことが起こる。♡はくれないけど、この日記をROMっている人がやたらと増えていくのだ。自分の周囲の人は、かなりの確率で読んでいたりする。初対面の人にも「日記いつも読んでます」って言われる。かなり細かいところまで読んでくれている方も出現する。

それが2019年という時代なのだろうか、YouTuberしかりだが、クオリティが高いものを煮詰めて発信するよりも、「こなす」程度にやっているものを毎日(つまり高頻度で)発信する方が人に届いてしまう。つまり、本当にどうでも良いことであっても「こなす」つもりで書き続けてしまえば、なぜかそれを楽しみにしてくれる物好きな人が出現し始める。

総括すると、noteを続けるためには「こなす」ことが重要。書くことを「こなす」マインドセットで書くことを自分の中で洗い物のようなポジションの仕方なくこなしてる行為にすること。

そしてそれはひいては、「クリエイター魂を捨てること」だ。クリエイターとしての矜持を捨てて、クオリティになどこだわらず、書くことを目的化して、クソキュレーションサイトの「いかがでしたか? 記事」を書くようなモチベーションでただ書く。

「誰もが創作をはじめ、続けられるようにするために。」

それがnoteが推進するテーマなのかもしれないが、何かを表現したくて創作している限りはその何かを出力しきってしまったときに続けることは不可能になる。そういうのは私も含めた普通の人にとって有限だ。だからその先の、「仕方ないから書いてる」「惰性で書いてる」領域にいかに早期にスイッチするかがnoteを続ける秘訣だ。noteを続けることを諦めるか、クリエイター根性を捨て去るか。そのどちらかだ。

いかがでしたか?

この記事が参加している募集

noteのつづけ方

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!