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0209「お前はラッセンになりたいのか」

前にも書いたが、普段あんまり映画というものを観ない。いや、最近は、長女が「Frozen(アナ雪)」にハマっているので、アナ雪を毎朝観ている。セリフをちょこちょこ覚える程度には観ている。つまり毎朝映画を観ている。しかし基本的に自分から積極的には観ない。とはいえ全く観ないわけではないので、いっちょ前に好きな映画もあれば嫌いな映画もある。アナ雪は最高だ。

中でも、今まで自分が観た中で一番嫌いな映画というのははっきり1つあって、それは何かというと、これは議論を呼びがちなので書くの面倒くさいのだが、デミアン・チャゼル監督の「セッション!(原題:Whiplash)」だ。あくまで私の主観というか私の都合であることをお断りした上で自分の感想をそのまま言うと、この映画はクソだ。何でクソなのかというと、ただの退屈な映画だったら良いのだが、この映画は私にとって非常に大切な概念である「ジャズ」に対する誤解と使い捨てに満ちていて、ジャズをよく知らない人を勘違いさせる要素に満ちているからだ。

この映画がいかにそういう意味でしょうもないかは、公開当時に話題になった、菊地成孔先生が書かれている例のすごい議論になったやつに書いてあるし、私は当時からだいたいこれに共感していた。

私自身の言葉で言うならば、ジャズっていうのは自由そのものであって、極めて懐の深い世界のことを指すのであって、本当はこの映画で描かれているようなくそダサいものではないんだけど、この映画は「これがジャズというクソ音楽のリアルです」というひどい誤解に誘導するプレゼンテーションになってしまっているから、退屈とか通り越して迷惑なのだ。迷惑なのでアフィリエイトとかも貼らない。

こういうのはこの世界に生きていると結構たくさんあって、自分の仕事上でも、周辺にコード書いたこともないような謎の「テクノロジスト」とか、新しい機械のサンプルコードみたいのを自分の「作品」とか言っちゃう「クリエイター」みたいのが誤解を招くような行動をしまくって、本当に実力があるテクニカルディレクターが損する状態になりつつあったから、そこを守るためにそういうテクニカルディレクターばっかり集めた会社・団体をつくったりしている。嘘は勝手についてもらって構わないんだが、そのために人が大事にしているものをスポイルしないで欲しい。それは迷惑というものだ。

っていうようなフラストレーションとか怒りは生きていると枚挙に暇がなくって、なるべく避けて生きていったほうが健康だ。例えば、「セッション!」と同じ監督の「ラ・ラ・ランド」なんかは、自分にとって観ることにリスクがあるわけだし、映画好きじゃないのでわざわざ観る必要ない。良い映画なのかも知れないが、自分にとってはそうではない可能性が高いので、地雷を踏みに行くよりかはたぶんYouTubeで役満動画とか観てたほうがQOLが高い。なので観たこと無い。

ところが、一昨日、日本からの帰りの飛行機で不意に似たような地雷を踏んでしまった。飛行中はそれなりに時間があるので、Kindleに読んでいなかった本や漫画をダウンロードしておく。で、その地雷というのは、「響 〜小説家になる方法〜」だ。すごい小説の才能がある15歳の天才女子高生が文壇の常識をばったばったと覆して小説家として成功するような話で、その、文壇という閉じて保守的な世界をやっつける小気味よさなりが面白いのはわからなくもないのだが、どうにも共感できないのは、この天才女子高生の書くものを読んだ人がみんな感動して「まいりました」みたくなって、この人の小説が芥川賞と直木賞を同時受賞したりするところだ。

文章表現というものに「才能」があるのはわかるんだが、その才能がそういう「読む人全員の心を打つ」みたいのって、要するにそれは、ラッセンみたいな小説書いてるっていうことではないのかと思ってしまう。小説なんて多様なわけであるし、「天才」だからと言って商業的に成功しなくてはいけないわけではないし、芥川賞とか直木賞とかいうのは、各々の物差しとか文脈にいかにチャネリングできているかの話だと思う。たとえば、「棒高跳び」だったら、物差しはいかに高く飛べるか、だけなのでまあわかりやすい。棒高跳びの天才は、即座に棒高跳びの世界で一番の成功者であるべきだろう。

じゃあ小説だったらどうなの、ということでいうとたぶんそれは全然違って、「売れる」とか「多くの人たちに支持される」とかは、何をどう表現するか、とかそういう目的とは別の技術なわけであって、大沢在昌の「売れる作家の全技術」とかそういうような話だろう。「売れる作家の全技術」はとても良い本だ。

音楽だったら、じゃあいまここにジャスティン・ビーバーの新譜と、ドニー・マッカースリンの新譜があって、どっちかを必ず買ってください、って言われたらそれは私の場合迷わずドニー・マッカースリンの新譜を買うわけであって、そりゃあまあジャスティン・ビーバーがいくら売れていようが私はジャスティン・ビーバーの音楽に感銘を受けたことがないし、ドニー・マッカースリンは最近うちの会社に入社した長洞さんに似ているちょっと牧歌的な感じもする人だが、素晴らしいサックス・プレーヤーで、何度も感銘を受けている。そりゃあ音楽というものはそういうものであって、一定の物差しで正解が設定された時点で、そもそも芸術とかじゃなくなってしまう可能性がある。

で、「響 〜小説家になる方法〜」の何がモヤモヤしたのかというと、既存の文壇に対するアンチテーゼみたいな描き方をしながら、ストーリーは、その文壇における文壇的な物差しによる「成功ポルノ」「天才ポルノ」になってしまっているところで、読者としては全然噛み合わなかった。久々に飛行機乗っている間に読む本選びで失敗した。

この「成功ポルノ」「天才ポルノ」化、というのは、専門性のある領域を扱うときにいろいろ問題になるような気がする。たとえば、「ピアノの森」はすごく良い漫画だと思うが、それは、主人公のピアノ演奏の周辺に関係してくる人間を優しく描いていて、それが気持ち良いからのような気がしていて、じゃああの漫画を読んでショパンコンクールのなんたるかを理解できるかというと、私はクラシックのピアノ演奏を聴いてこの漫画の登場人物たちのように「あっ・・・!」みたいな恍惚とした感じになったことがないし、クラシックピアノの世界を大事に思っている人があの漫画をどう捉えるのかはよくわからない。

で、何が言いたいのかというと、たとえばビジネスの事業規模にしてもソーシャルメディアのフォロワー数にしても、自分と誰かそういう数値における社会強者を比較してしまうときに、相手は頑張ってラッセンやってるだけなのかもしれない、ということだ。別にラッセンすごいと思うけど、じゃあお前はラッセンになりたいのか、という意味で、あんまり気にしないほうが良いのではないか、というのをわりといつも思っている。

深津さんがそういうことについてなんか書いてるの見て、自分はちょっと違う切り口だったので書きなぐった。


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