0414「港がない沼津」

東京でお休みとしての週末を過ごすのは、わりと珍しいことなので、昨日に引き続き温浴施設に行ったり、子供のお土産を買ったりして過ごす。

ちょっとだけ遠出したかったのと、せっかくなので昼間から酒を飲みてえ、と思って浅草で皐月賞でも観ながら飲むかな、とか思ったりしつつ、いや、だったらどうせなら日本でしか食えないものを食いながら酒を飲んだ方が良いな、と考えて、しばらく考えて、厚木にシロコロホルモンを食いに行くことにした。

アメリカではなるべく肉を食わないようにしているが、代用肉で代用できないものは、無理をせずおいしく頂きたいと思っている。それでいうと、厚木シロコロホルモンというのは、間違いなく代用できないものだ。

B級グルメの祭典、「B-1グランプリ」でも優勝している、厚木でしか食えない食い物だ。代表的なシロコロホルモン屋である「酔笑苑」に行き、七輪と向き合いながら酒を飲む。

といいつつ、この後家族のお土産を買うことにしており、酔い過ぎてはいけないので、ジョッキ二杯くらいで済ませる。二週間も家を空けている。家族の喜ぶ顔が早く見たい。厚木から都心に戻る途中、相模大野のビックカメラで子供のお土産を買うことにした。しかし、まだ少し酔っているので、酔いを覚ましてからお土産に対峙したい。

そこで、思いついたのが、「数年ぶりにパチンコをやってみよう」というソリューションだ。

ちなみに私はもともとあんまりパチンコには興味がない。なんというか、剥き身のドキドキ感じゃなくって、人工的なドキドキ感かそんなに好きではない。サイコロとかトランプとかのシンプルな仕組みの方が剥き身のドキドキ感がある。液晶の表示やLEDの発光とか音とかに振り回される感じは、ある種のポルノなのではないかと思う。刺激を求めて、人工甘味料をドバドバとかけたもののような感じがする。

だから、単なるサイコロ、単なるトランプで勝負するカジノのテーブルゲームなどは素材の味をそのまま活かしていて、素晴らしいなと思う。

ともあれ、相模大野のパチンコ屋に入ってみた。どのへんの台が出てるかなー、などと店内を物色しているうちに、異変に気づいた。どのへんの台が出ているのかが、わからないのだ。正確には、出ている台が見つからない。

混乱した。この店は、玉を全く出していないのか? なぜ客たちはそれを受け入れて漫然と玉を打っているのか。

混乱しつつも、よくよく見ていて気づいた。

「この店にはドル箱がないんだ。。。」

以前は、パチンコ屋で出ている台の横には玉がいっぱいに入ったドル箱が積まれていた。私たちは、それを見て、その店で、台でどれだけ出ているのかを判断していた。そのドル箱が、この世界では廃止されている。。。?

さらによく見ると、玉が出るところに、謎の箱みたいのがあって、どうやらそこから出玉が排出されて、無味乾燥な玉数という数値に変換されて、記録されているっぽい。

唖然とした。パチンコというのは、控除率も高いし、大した風情もないし、そもそも全然儲からないのだが、唯一の風情といえば、お金というものが、銀の玉という重みのある存在に具現化されて、そしてともすればその玉たちが際限なく放出されるときの音と重みの「物理感」だったのではなかったか?

つまり、物理的に玉が放出されることがないパチンコなんて、スマホのパチンコシミュレータとかと変わらないのではないか?

お土産を買ってから、ニューヨークにそろそろ帰るので、桜新町の実家に寄った。桜新町のパチンコ屋もそうなっているのかをチェックしようとしたら、駅前のでかいパチンコ屋がつぶれていて、その隣の、そのでかいパチンコ屋の登場で潰れそうになっていた、私が小学生の頃からあるパチンコ屋が残っていた。そして、ドル箱は無かった。

これはひどい愚行だ。私はもちろん、そんな出玉のカタルシスが得られないパチンコなんて全く萌えないし、相模大野でも桜新町でもやる気が起きなかった。これは、もはや「大根のないおでん」とかではなく「麺のないラーメン」に匹敵するほどの喪失だと思う。

しかも、これはどうやら全国のパチンコ屋でこうなってしまっているらしい。これによってパチンコ屋の店員の負担とかいろいろコスト削減できるのはわかる。しかし、パチンコというのは、価値を物理的な重みで感じることができるから、パチンコなのでは無かったか?

些末なことではあるが、私はこういうのを目にすると結構本気で日本が心配になる。
前も書いたが、日本のカジノではディーラーは機械に担当させる、みたいな話があるらしい。チップもない、マシンカジノになるということだ。風情というものを何にもわかっていない、と言わざるを得ない。

チップが飛び交わなければ、物理的に価値が表現されなければ、ドキドキなどするわけがない。ドキドキしないギャンブルなんて、シンデレラ城のないディズニーランドのようなものだし、港がない沼津みたいなものだ。

本屋に行って積んである本を眺めても、風情軽視を感じてしまうし、これは昔からだけど、ベビーカーや妊婦などへの不快感を丸出しにする人たちとかも、ある種風情を楽しむ余裕がないように見えてしまう。

ドル箱を取り戻さなければ。もう手遅れなのか。日本にはドル箱が必要なのに。上野千鶴子もいいけど、ドル箱も大事なのに。

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