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「髄の年輪のモノローグ」の棚

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音楽レビュー連載「髄の年輪のモノローグ」の一覧です。毎月第1日曜日更新。(日付が変わった後の深夜になる可能性もあります)
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髄の年輪のモノローグ 目次

・第0回 プロローグ(兼、予告) https://note.com/qeeree/n/n84d2bcadbd94 ・第1回 pre-sc…

qeeree.
4年前

髄の年輪のモノローグ 第18回 Hermann H.&The Pacemaker…

 まだスマートフォンがこの世に存在せず、インターネットも今ほどは浸透も活用もされていなか…

qeeree.
3年前
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髄の年輪のモノローグ 第17回 the band apart『K. AND HI…

 東京は西多摩に生まれ育ち西多摩に暮らす私にも、違う土地に住んでいた経験はある。当時の親…

qeeree.
3年前
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髄の年輪のモノローグ 第16回 KAN『愛は勝つ』

 私が幼少時に蓄えた記憶のフォーマットはほとんどがJPEGで、消えかける度に複製して保存する…

qeeree.
3年前
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髄の年輪のモノローグ 第15回 SAKEROCK『慰安旅行』

 高円寺に「円盤」というお店がある。ものすごくざっくり言うと「イベントも喫茶もできる、自…

qeeree.
4年前
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髄の年輪のモノローグ 第14回 pre-school『this album』

 義務教育は国と保護者の義務なので、小学校も中学校も(私立や一部例外を除いては)あっさり…

qeeree.
4年前
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髄の年輪のモノローグ 第13回 Small Circle of Friends『CIRCLE』

 東京の西の端、西多摩の山沿いでもテレビ神奈川が受信できる。そのことを知ったのは、小学生の頃だった。その頃の私はまだテレビっ子で、自分専用のテレビデオを与えられていた。それを部屋でずっとつけていたので、東京都民の思う「普通のチャンネル」(当時は1・3・4・6・8・10・12)以外のものが見られることに気付くまでには、そう時間はかからなかった。そして、「普通のチャンネル」とは少し違う独特な雰囲気に惹かれ、中学生になる頃には(他局のアニメや音楽番組を見る時以外は)ずっとテレビ神奈

髄の年輪のモノローグ 第12回 EXTRUDERS『neuter』

 18歳の春に音楽ライターになり、ほぼ同時にライブハウスに通いはじめた。音楽の勉強のつもり…

qeeree.
4年前
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髄の年輪のモノローグ 第11回 ウルフルズ『バンザイ』

 今の「小学校」という場所がどんなもので、どんな雰囲気なのかは知らない。ので、現在の実際…

qeeree.
4年前
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髄の年輪のモノローグ 第10回 YELLOW MAGIC ORCHESTRA『S…

 私には叔父がいる。母の弟。物心ついた時からずっと、祖父母宅の2階に住んでいる。  私は…

qeeree.
4年前
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髄の年輪のモノローグ 第9回 フジファブリック『アラモルト』

 音楽ライターになってから2年ほどの間は下北沢にいることが多かった。ハイラインレコーズが…

qeeree.
4年前
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髄の年輪のモノローグ 第8回 Hi-STANDARD『MAKING THE RO…

 「パイオニア」という言葉がある。英語で書くと「pioneer」。意味は「開拓者」とか「先駆者…

qeeree.
4年前
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髄の年輪のモノローグ 第7回 pre-school『(無題)』

 私は東京の西の端の山のほう、いわゆる「西多摩」と呼ばれるエリアで生まれ育った。祖父母の…

qeeree.
4年前
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髄の年輪のモノローグ 第6回 music from the mars『music from the mars』

 大学に入るとほぼ同時に音楽ライターになった私は、趣味と実益を兼ねてのライブハウス通いを本格化させ、週3回くらいのペースで都内のライブハウスを右往左往していた。起床して、早朝の3時間だけバイトをし、大学に行き、終わったら当時お世話になっていた編集部に行ったり取材に行ったりし、良いイベントがあれば観に行き、帰って寝て起きて……の繰り返し。当時の行動と経験がそのまま現在の私の土台になっていることを考えるに、無駄でも間違いでもなかったどころか大正解だったのではないかと思う。  あ