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88歳ゴダールの新作『イメージの本』を目撃した。より過激化した切断。見出された時。咳き込むゴダール。

ついに見た。
前作『さらば、愛の言葉よ』を見たとき、4分の1くらい眠ってしまった。今回もそのような予感で劇場に向かった。おまけに劇場に行くのに道に迷ってしまい、くたくたになってしまった。

目撃したものをとうてい言葉にすることなど不可能だけれど(だからこその「イメージの本」だ)、感じたままを記録しておきたい。ちょうど今日、プルーストの『失われた時を求めて』を読了したところでもあり、私たちはつねに、時間の波の侵食にさらされている。

もはや、どこからが始まりなのかも、どこで終わりなのかもわからない。その意味で、「能楽」が頭をよぎった。見終わったあと、上映前に流された、他の映画の予告映像さえ(コールド・ウォー)、ゴダールの作品の一部として思い出されて仕方がなかった。
さらに、何を言い加えればいいのか。途方に暮れる。

前作との比較で言えば(とはいえ、ほとんど記憶にない。でも見直すことはしない。プルーストにならって。当初の「印象」が現在の印象に汚されないように)、現在に近い映像が少なかったこと。ほとんどが、過去の映像作品(ゴダール自身の過去作も含めて)の(おそらく無断)引用と、完膚なきまでに加工され、破壊された引用によって織り成されている。
後半、わずかに現在に近い映像が挿入される。まったく根拠のない推測だけれど、それはゴダールが実際に中東に旅行したか、他の誰かが旅行したか、ともかく、中東のとある国の生活を盗撮した映像だ。それからニュース映像。

それから、出演者の不在。強いて言えば、あらゆる映画作品に出演している、ほとんどが亡霊である俳優たち。そして、ゴダール本人のつぶやき(あるいは、手!?)。ときに俳優たちの声はかき消され、代わりに音楽が、あらゆる音楽が流れ、それもまた暴力的に中断される。引用作品に引き込まれそうになる暇もなく、容赦なく。そのたびに、目の覚める思いがした。

どうでもいいことだけれど、『失われた時を求めて』に、コタールという医師が登場した。そういえばゴダールの父親は医師だ。そしてプルーストの父も。暴力的な中断としての「死」。ゴダールの唐突な中断には、案外「死」がしつこく粘着しているのかもしれない。そして特に本作は、ほとんどが「あの世」だった。

書物からの引用。これもまた、モンテーニュ、フォークナー、ランボー、フローベール、アルトー、ドストエフスキー(『失われた時を求めて』にも登場)、マルロー、コクトー、ヴァレリー、ボードレール……ほとんどが、いや、ひょっとしたら100%が死者の言葉だ。書物とは死者のつぶやき。少なくとも、プルーストからの引用はなかったように思う。

映画史を貫くライトモチーフ。恋、鉄道、殺戮、戦争、死、快楽、共産主義、政治、ヨーロッパ、アラブ……案外そこには一貫性があるような気がした。

ともかく、つむじまがりが全編に横溢している映画だと思いきや、最後に、唐突に、「希望」についてゴダールが語る。まさかと思った。たぶんからかっているのかもしれない。しかも、ゴダールが咳き込みながら語る。しかもこの咳き込みが音声効果で重層化される。この咳き込みがなければ、涙が出ることはなかっただろう。その口調はしかも、けっこう真剣なのだ。たとえゴダールが「希望」を軽蔑するために語っていたのだとしても。同じことだ。

決してこんな言葉をゴダールは使わないだろうけれど、本作はゴダールの遺言だ。いや、遺言でさえない、ゴダールにとって、死は単なる中断でしかないのだろうから。人はいずれ死ぬ。にもかかわらず、人は他の動物とくらべてなまじっか記憶力が優れているがゆえに、「時」というものに翻弄されている。「時」というのは単なる運動の変化でしかないのに、記憶があるがゆえに、へたに時の経過を認識してしまう。それが老いと若さを認識させる。人類にとって、呪いのようなものだ、時間は。それがゴダールにとっての厄介な「映画史」であり、プルーストにとっての「社交界」と「鈴の音」であったのだろう。時を見出すというのは、ハイデガーを持ち出すまでもなく、死を見出すということなのだろう。
 

存在するはずのない時間を発明せざるをえなかったのが人類である。その点、ゴダールとプルーストは同じことを表現している。

少し長いけれど、ゴダールにならって、引用したい。

「しかし、せめてその力が、作品を完成するにはいくらか長いあいだ、私に残されていたとすれば、まず欠かしてならないのは、人間たちを(たとえ怪物のような存在に似させることになろうとも)、空間のなかにあてがわれているあのように狭い場所にくらべて、逆に厖大な一つの場所を時のなかに占めるものとして、私の作品のなかに描きこむことであろう。そうした人間たちは、多くの年月のなかに投げこまれた巨人として、あのように多くの日々がそこにはいってきて位置を占めたあのようにへだたったさまざまな時期に、同時にふれるのだから、際限もなくのびひろがった一つの場所を占めることになるのだ、ーー時のなかに。」(『失われた時を求めて』第7篇「見出された時」。井上究一郎訳。ちくま文庫)





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