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ニューヨーク公共図書館

フレデリック・ワイズマン監督のドキュメンタリー『ニューヨーク公共図書館 エクスリブリス』を観た。ちなみに、エクスリブリスとは、ラテン語で、蔵書票を意味するらしい。

3時間強ある上映時間。でも、まったく飽きることがなかった。

ニューヨーク公共図書館というのは、ずいぶん大規模な図書館らしい。まったく知らなかった。分館がたくさんあり、それぞれが地域に密着した活動をしている。

「公共」図書館とはいえ、予算の何割かは市が拠出するらしいのだが、残りは民間から集めなければならない。本作ではそのための戦略を練る会議の模様まで映し出される。

何より感動したのは、この図書館の志の高さ。ベストセラーを複数入れるよりも、研究書などを収集し、ちまたで絶版になった後でもそれを手に取ることができる環境を準備しようとしている。ほんとに心動かされた。(というのも、日本は私の地元の図書館では、逆のことが起きているからだ。ベストセラーが複数冊購入され、高価な研究書は後回し。)
これこそ、知のアーカイヴとしての図書館の本来の姿だろう。

ニューヨークは移民のひしめく街。黒人の多い分館によっては、やむをえず教育を受けられなかった人たちが自主的に学ぶことのできるサービスを提供しようと試行錯誤している。また、公民権運動に関する資料を電子化してアーカイブする活動も行っている。

それだけではない。貧困層がインターネットを利用できるようにモデムを貸し出すサービスをしていたりする。また、ホームレスにも門戸を開こうという開かれた考えもある。

そんな図書館が存在することを寡聞にして知らず、もはやそれって図書館の仕事か!と心底驚かされた。教育の機会を与えるどころか、行き場のないニューヨーク市民にとっての避難所でもあろうとしている。日本の図書館しか知らなかった私は、人間捨てたものではないと思った。(日本の図書館なら、まず、ホームレスを排除するための方策を考えることが前提となるだろう)

なんだか、日本の図書館をさんざん貶めた感があるけれど(そして施設としての日本の図書館を実際貶めているのだけれど)、でも、唯一、本作と日本の図書館が似ていると思った点がある。それは、ニューヨーク公共図書館で働く個々の職員の人たちが、地元の図書館でであう職員の人たちと似ているということ。

本について尋ねると、すすんで答えてくれる。そんなとき、彼ら彼女らの表情は誇り高い。ほんとに本が好きなんだなと実感して嬉しくなる。

じゃあ、ニューヨークと地元の図書館、何が違うのかと考えてみる。ニューヨーク市だって、図書館に予算を割くのは、どうも嫌がっているようだ。ホンネでは、図書館なんているの? とどうも考えているらしい。それは日本も同じ。

観ているうちに気がついた。
それは、とにかく、市民が頻繁にガチで話し合っているということ。これが決定的だと思う。日本は地方自治体、国、VS個人という構図が強い。でも、ニューヨーク市民にはその間があった。

個人←市民→政府。シチズンシップ。これだと思った。物事を動かすためには、面倒でも市民としての活動をおろそかにはできない。彼ら彼女らはそのことを歴史的に痛感しているのだ。だって、移民都市だから、忖度でもしようものなら、政治のしくみがめちゃくちゃになってしまう。

国家の常として、構成民族をシンプルにしたいという欲望がはたらく。アメリカはその広大な国土ゆえ、物理的に不可能だった。でも、小国日本はそれが可能。それゆえ宗教的で狂った同調圧力的なイデオロギーも伝染しやすいのだろう。多少なりともそうした地理的要因はあるにしろ、ニューヨーク公共図書館のポリティクスにくみしたい。

(*掲載写真は、ニューヨーク公共図書館ではありません)


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