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自分がいない映画、『ハッピー・アワー』

いつか観ようと思っていながら5時間というボリュームに尻込みしていた濱口竜介監督の『ハッピー・アワー』をようやく観た。通して観る時間がなく、何回かに分けて観た。一秒たりとも観るのをやめようかなと迷いさえしなかった。飽き性のはずの自分に驚いている。そして本作を観ていた数日、夜が待ち遠しかった。

この作品は、いわゆる細雪型のフィクションだ。谷崎潤一郎の『細雪』にちなんで勝手にそう呼びたい。
何人か(3、4人くらい)の女性(見た目でもいい)が登場する。彼女たちは姉妹であってもいいし、姉妹のような友人たちであってもいい。彼女たちそれぞれの生き様が、ときに残酷な帰結に行き着こうが、ゆったりとした時間のなかで悠揚と描かれる。(いま思いつく限りでは、他には例えば、金井美恵子の傑作小説『恋愛太平記』とか)

本作には、純、あかり、桜子、芙美、という4人の女性たちが登場する。
純と桜子は中学からの友人であり、あかりと芙美は、30歳を過ぎてから、純が他の3人に引き合わせたという経緯がある。簡単に紹介すると、

は朗らかそうな性格ではあるがどこか謎めいている。生命物理学者の夫を持ち、彼女の浮気がきっかけとなり、彼とは離婚をめぐって裁判で争うことになる(それをきっかけに夫は遅ればせながら純を愛し始めるというややこしい展開にもなるのだが)。

あかりは純以上に朗らかで、強気な性格。看護師をしており、また、自分の職業に誇りを持ってもいる。バツイチの独身。恋愛を遠ざけてはいるものの、しかし少しやせ我慢してもいる。

桜子は既婚者で中学生の息子を持つ。温厚な性格。あまり感情をおもてに出さないが、自身の今の人生に満足しているわけではなく、ただそれを抑圧し、淡々と日々を送っている。

芙美はキュレーターをしており、編集者の夫がいる。桜子と同様あまり感情をおもてには出さないが、桜子がおっとりとしているとすれば、芙美は理知的な印象。はっきりと言うことは言う。

そんな4人が、鵜飼というアーティストの男が講師を務める「重心」をテーマとするワークショップに参加したことから、物語が少しずつ動き始める。もともと芙美とその同僚で主催することになったのだが、人数が集まらず、他の3人が駆り出されたのだ。ここで、まるで失っていた身体感覚を取り戻したかのように、多かれ少なかれ覚醒のようなことが起きたのかもしれない。どことなくうさんくさい鵜飼という男だが、純ともう1人、物語を大きく進めるきっかけになるのがこの男だ。

あまり物語を説明しても退屈だし、実際に観たほうがよほど面白いので詳しいところは省くとして、4人が友人になったきっかけが純であったと書いたが、4人の関係が少しずつほころびはじめるトリガーとなったのもまた純だった。彼女は、4人で有馬温泉へ旅行した後、離婚裁判に負けたことを知らされ、姿を消す。なぜか妊娠しているらしい。

(明示はされないが、鵜飼の子だと思う。というのも、鵜飼が手配した東北にあるシェルターに匿われることになるし、鵜飼というアーティストもまた、震災を機に生まれた。その東北で純が子を出産するだろうことは意味深だ。純は我が道をゆく性格であり、いわばみずから穏やかならざる地へ赴くという決意に、それこそ穏やかならざる覚悟が透ける)

ほころびは変化でもある。純によって取り残された3人はそれぞれに傷つき、純の失踪に向き合う。仲違いもする。仲良しのお友達ではもはや安定していられない。こうしてそれぞれが自分の不満と欲望に気づきはじめる。まるで純の決断に引き寄せられるようにして。

この純の決断をはっきりと「裏切り」だと感じたのがあかりだ。嘘をつかないことが友人の証だと信じているから。しかし、自己の欲求と不満を抑えて生活している桜子だからこそか、純は純だ、他者の気持ちはどうしたって理解できないのだ、という真理を知っている彼女があかりにそう意見し、関係はこじれる。同時にここから、あかりと桜子と芙美はそれぞれ、綺麗事だけでは片付かない、それぞれの生を生き始めることになるーーーーー

本作を象徴するセリフがある。

ひとつは朝帰りした桜子が夫に対して言った言葉。
「謝りたい。でも、できひん」「こうすることしかできひん」

その言葉に呼応するかのように、あかりも、別の場所、別の時にこう呟く。
「桜子に謝りたい」

この2人のセリフが、この長大な作品のまわりを、ゆるい円環をなして回っているような気がする。初めて自分の欲望を発見した桜子と、初めて自分には不可解な他者がいるということを認めたあかり。
本作で展開される物語は、すべてこのヴァリエーションであると言える。

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さて、本作で演じている俳優たちはみな、職業俳優ではない。インタビューを観て知った。本作は俳優を選ぶオーディションの後、長期にわたるワークショップを経て徐々に作りあげられていったものだそうだ。

なるほど見たことのある俳優は1人もいなかった。観ながら、いったい作品内で何が起きているのか、うまく理解できなかった。ある出演者(新人看護師役で出ていた人)がインタビューで話していたのだが、彼女とまったく同じことを感じた。というのは、主演の四人の俳優たちが、長い長いワンカットシーンを重ねるなかで、どんどんと美しくなっていくのだ。でも見惚れるというのかそういうのではなく、必死で生きようとしている人間がなぜか画面の前にいるというむしろ不思議な感覚、そして、そんなひたむきな人間を画面越しに覗いていることへの後ろめたさすらあった。

どうして自分だけが画面の外にいるのか。折にふれてそんな感覚は戻ってきた。特にはっきりと意識したのは、先に挙げた、鵜飼という男が主催した「重心」に関するワークショップのシーン。それからその打ち上げの長い会話のシーン。自分もいつの間にか参加しているつもりになっていて、出演者たちと一緒になってちょっと笑い声を漏らしてしまった瞬間があった。まったく奇妙な体験だった。この世界に入りたいとすら思った。

このようにずっと、「他人事ではない」という思いを抱えながら、落ち着かない気持ちで本作を観た。それは似たようなことが自分の身に起きている(起きた)という意味ではない。誰かに思わず感情移入してしまうというのでもない。「自分がいない」という不在感。

観終えた瞬間からようやく、自分の一部が、この作品の中で生き始めた気がする。本気でそう思っている。

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