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J.S.バッハ『無伴奏チェロ組曲』が気になって

先日、ピーター・バラカン氏がパーソナリティーを務めるラジオ番組を聴いていたら、ある本を薦めていた。

Eric Sibling,"The Cello Suites: In Search of a Baroque Masterpiece"

という本。

J.S.バッハと、チェリスト、パブロ・カザルスファンの間では常識となっている話だけれど、

バッハの『無伴奏チェロ組曲』、つまり、チェロ1本だけで演奏する組曲は、それまで脚光を浴びることはなかった。しかし、子供のパブロとその父がたまたま入った楽譜屋で、パブロはバッハの『無伴奏チェロ組曲』の楽譜を見つけ、それを購入。たちまちに魅了された。

それまでは単なる練習曲としてしか見なされていなかったその曲が、なぜ、カザルスによってふたたび魂を吹き込まれるに至ったのか。

それが本書の主題の1つ。ここで浮上してくる政治的問題。カザルスはフランコ政権に代表されるファシズムを心底憎んでいた。一方、バッハはいつのまにか、ドイツの遺産になっていた。ナチスがまったき「悪」であったことは改めて確認しておきたいけれど、しかし、そのドイツ側は、さまざまなドイツの文化遺産とあわせて、連合軍の攻撃を避けるために、バッハの自筆譜などを城などに避難させたという。当然ナチスに敵対的であったカザルスがバッハを愛したというこの皮肉。

というか、音楽には意味がない。ただ、美しいかどうかが問題だ。

それをわかっていて、カザルスも、十分にそれを世界平和のために政治的に利用したように思う。そのことも、本書を読めばわかってくる。

読み進めるにつれ、もう1つの謎が浮上。組曲のうち、第6番だけが、5弦ある弦楽器(チェロは4弦しかない)のために書かれたというのだ。

辞書片手に読み進めたものの、邦訳がすでに存在することが判明。でも、そちらに行きたい誘惑に耐えながら、とりあえず読み終えた。

母国語である日本語だと、すぐに感情移入してしまうけど、外国語である英語で読んでいろいろと客観視できた気がして、良かったように思う。

『無伴奏チェロ組曲』にまつわる個人的体験も、少しだけ書かせてほしい。

高校生の頃だけれど、私は風邪を引いて家で眠るともなくダラダラと過ごしていた。なんとなくテレビをつけると、旧ソ連のチェリスト、ロストロポーヴィチが、バッハの『無伴奏チェロ組曲』を演奏していた。それが初めての出会いだった。

ぼんやりとした頭で聴きながら、じわりじわりとその深みのある音が自分を侵食していくのがわかった。風邪を引いてぼんやりしていたせいもあったのか、余計な自我が一掃されて、なんて美しい曲を今聞いているのだろうという感激だけがひたすら記憶に残っている。

その翌年、たまたまヨーヨー・マがバッハの『無伴奏チェロ組曲』をプログラムに加えたコンサートを開くというのを知り、学校を休んで聴きに行ったのを覚えている。一列後ろのおじさんが、コンサートが始まるなり、大いびきをかいていたことを覚えている。当時はそれに腹を立てて、感激できないことにも腹を立てていたが、今思えばたぶん、退屈だったのだと思う。その口実のための腹立ち。自分が感動できないことへの苛立ち。ロストロポーヴィチの演奏で得た感動を取り戻したいという喪失感。

本書を読みながら、まるで、電子レンジでチンしたみたいに、当時の記憶がよみがえってきた。自分はチェロなんて弾けないし、死ぬまでに弾くとも思えない。それでもまるで、自分の問題であるかのように読ませる本書。ぜひなるべく多くの人に手にとってもらいたいと思った。

こんなことを書こうというきっかけを与えてくれたのは、数時間前に見た、DOMMUNEのクラシックDJの映像だ。ちゃんと見てはいないけれど、こうして、不可欠な遺産は、国境を問わず、更新されていくに違いない、また、そうあってほしいと強く思った。

いま、一人の子供がこれを読んで、たまたま『無伴奏チェロ組曲』のことを知り、たまたま聞いたらめちゃくちゃ良かった、という体験がいたるところで散発したら、これほど嬉しいことはない。

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