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トッド・フィリップス監督『ジョーカー』を観た。一粒の涙を滴らせて。

子どもの頃、父に連れられて行った、ドイツにまつわるイベントで、奇妙な仮面をつけたピエロに会った。サーカスも観た。ピエロは、頭の上でヴァイオリンを弾いていた。曲まで覚えている。ヴィヴァルディの「春」だった。魅了された。

その夜、ピエロの夢を観た。内容は覚えていないが、まるで現実みたいな夢だった。その幻想的な夢がさめたとき、がっかりしさえした。

それ以来、ピエロは私にとって原光景のひとつになった。

だから、バットマンの宿敵としてジョーカーが現れたとき、すごく複雑な気持ちになった。ピエロのあの曖昧さ、幻想が、「狂気」や「悲しみ」や「悪」として結晶化されていたことに。あるいは言語化されていたことに。

ピエロ=道化という存在は昔から、その両義性、どっちつかずの曖昧性こそがその属性だった。したがって、その存在を意味付けしようとすればいくらだってできるのだ。

では本作『ジョーカー』はどうだったのか。

いわば曖昧を貫くことで権力者の傍らにいるピエロの存在に「エヴィデンス」を与えようとしているのが本作だと思った。そりゃ、こんなに不幸ならジョーカーにだってならざるをえないよね、という共感を引き出すためのエヴィデンス(観ながら、2008年の秋葉原通り魔事件を思い出していた)。

かたや、ジョーカーに共感しすぎているという批判も出ている本作。それはおそらく、ジョーカーにエヴィデンス=物語を与えたことにあるのだと思う。私が記憶しているジョーカーの恐ろしさは、その存在の無意味さにあったのだが。。

それはさておき、ホアキン・フェニックス演じるジョーカーはあまりに魅力的だった。最高だった。それだけではいけない!? 

あの、悲しみに満ちた笑い声を聞くたびに胸が締め付けられた。

あの、あえて言葉で問いかけられたときに見せる、優しさに満ちた眉間の皺。

あの、テレビ出演が決まったときにアーサーが着た衣装の、何ともにあっていること。また、あの至福に満ちたダンス。

けっきょく、で、観てよかったの、わるかったの? という声が聞こえてくる。でもその質問には断固答えたくない。おまえは右翼か左翼か、的な。

あの、アンチ英雄に選ばれたときのジョーカーの悲しげな表情。

言語(=エヴィデンス)ではとらえきれない、その表情があって安心した。

踊りながら悲しむ。これこそ表現の醍醐味。そうそう、子どもの頃にみたピエロも、踊っているくせに悲しげだったんだよな。仮面の頬に、一粒だけの涙をしたたらせて。



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