見出し画像

《萬柳堂即席》-趙孟頫- (3)

前回


朱熹や門人など宋代の知識人や政治家の経歴および著作を確認する為に使用する工具書が《宋人傳記》であるが、ここに趙孟頫の掲載はない。

しかし《元人傳記》には掲載されていた。


趙孟頫(1254-1322)
子昂と字す。松雪道人と號す。湖州人。宋宗室。
性は通敏なるも、未だ国子監に試中するを冠たらず、仕ふるに及ばずして宋亡ぶ。
至元二十三年(1286)徴され入朝し、兵部郎中を授く。集賢直学士に遷り、出でて済南路同知と爲す。
成宗立ち、召され《世祖実録》及び《金書蔵経》を修む。事畢へ辭して帰す。大徳三年仍ほ集賢直学士・提挙江浙儒学を授く。至大三年翰林侍読を拜し、尋いで復た辭して帰す。
仁宗即位し、集賢侍講に除され、累ねて翰林学士承旨に遷る。延祐六年(1319)請老し帰す。
至治二年卒す。年六十九。
魏国公と追封され、文敏と諡す。
《松雪齋文集十一巻》有り、又書を工みにし画を善し、冠絶たること一時。頗る其の経済の才と文章の名とを掩ふ。


宋室という出自ながら、南宋の時代には出仕しておらず、元朝に出仕しているのだから「元人」とされるのはやむを得ないだろう。

《中国の名詩鑑賞9(元・明)》(福本雅一 明治書院 1976)では、趙孟頫が生きた時代を以下のように説明している。

中国に侵入する前に、すでに西方の文明と接触していたモンゴルは、必ずしも中国文明を尊重せず、知識人の特権も認めないばかりか、長い伝統である科挙をも停止してしまった。旧南宋人は蛮子と呼ばれて冷遇され、儒者などは九儒十丐、つまり最下等の乞食の上に位置していたのである。
時代の文化の指導者であった者たちの、政界での地位の低さは驚くべきものであり、趙孟頫や虞集でさえも例外ではない。それ故、官界から遮断された多くの読書人は、その知識を立身の手段として利用できず、空しく作劇に、あるいは閉ざされた抒情の世界へ、没入する他はなかった。元詩が一般に繊細で、気迫に乏しいのは、おそらくこのような事実の結果であろう。


元朝に出仕した趙孟頫や同様の南宋人を批判する明代の政治家李東陽の詩がある。

趙承旨
誰家子
王維詩画鐘繇書
不独行蔵両相似
文山令子燕京臣
臨川貢士官成均
名家大儒亦如此
雪楼之徒安足歯

趙承旨
誰が家の子
王維の詩画 鐘繇の書
独り行蔵の両(とも)に相い似るのみならず
文山 子をして燕京に臣たら令め
臨川の貢士 成均に官たり
名家大儒も亦た此の如し
雪楼の徒 安んぞ歯するに足らむ


趙承旨とは趙孟頫のことである。“誰が家の子”とは宋室であること知ったうえでの皮肉である。
また、王維は安禄山の乱後に安禄山勢力に従い、鐘繇は当初漢に出仕していたが後に曹操の魏に出仕した。このように二朝に仕えたことを、書画に優れた趙孟頫に重ねている。
さらに文天祥の一族などの高名な南宋人が揃って元朝に出仕していることを“名家大儒も亦た此の如し”と批判し、最後に“雪楼の徒”即ちフビライの命を受けて趙孟頫などの人材を推挙した程鉅夫を罵倒している。

なお、李東陽自身も晩年には勢力を強めた宦官に迎合したのだから、二朝に仕えたわけではなくとも、ここまで偉大な先人達をけなす資格はないだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?