形のない夢



子どもの頃の夢を叶えることができたおとなは、どのくらいいるのだろう。




私が小学生のときに持っていた将来の夢は、

「マザーテレサになる」ことだった。


当時は本気でそう思っていた。

小学校の図書館にあるまんがの伝記で、彼女のことを知った。もちろん、小学生向けの本なので彼女の全てが書かれているわけではない。けれども、小学校低学年だった私に、彼女の残した功績はとてもとても大きな影響を与えた。

小学校では、学年が上がると委員会活動が始まる。彼女のように、世界の貧しい人の人の役に立ちたい!と安直に考えた私は、ボランティアをする委員会に最初から最後まで活動していた。使用済み切手や書き損じハガキ、空き缶などを集め支援に役立てたり、世界の子どもの置かれている状況を知ってもらおうという活動だったり。



私は、(当たり前だけれど)「マザーテレサ」そのものにはなれなかったし、彼女のような「修道女」にもならなかった。

彼女は「修道女」になり、多くの功績を残した。しかし私の方はというと、様々な迷いや不安、将来のことを具体的に考えるうちに、修道女になるという選択肢が無くなっていった。




「将来の夢は何?」「おとなになったらなりたいものは?」

とおとなは子どもによく聞くけれど、答えとして「職業」のことを指している(=求めている)場合が多い気がする。

確かに、自分で道を選ばなければならない瞬間はやってくるし、おとなになると一個人が名前ではなく、「課長」「〇〇店の店長」「〇〇くんのパパ(ママ)」など、役割を指す呼び方で呼ばれていることもある。



もちろんそういう夢もたくさんあるだろう。

だけど夢って、おとなになるって、本当にそういうことなんだろうか。



私が今持っている夢は、「出会った子どもを幸せにする」こと。

今、こうして子どもに教える仕事をしているが、学生時代に夢が見つかったわけではない。し、「なりたい職業」という意味での夢も、今の職業とは全く違うものだった。しかも、大学に入学するときは別の夢(≒なりたい職業)を持っていたし、それは在学中でも、卒業する時にも、どんどん変わっていった。

小さい頃から憧れ続けた職業に就くことは、本当に素晴らしいことだと思う。血の滲むような努力の賜物であると思うし、夢を叶えても、それを続けていくことは本当に難しいことなのだと思う。

人も世界も、どんどん変わっていく。だからその変化の中で、「変わらない意志の強さ」を持つことは素晴らしい、という見方ができる。



「小さい頃から持っていた夢(≒職業)を叶える」ことは、美談として取り上げられやすい。けれど、

「将来の夢は何?」「おとなになったらなりたいものは?」

に答えるときに、(社会の中での役割≒職業を指す)形のある夢でなく、形のない夢を描くこと。そういう夢を、子どもたちが考えることがあってもいいのではないか。

「誰かのため」ももちろんよいけれど、「幸せに生きたい」「楽しく暮らしたい」とか「死ぬまでにここには行っておきたい」とか、社会的な役割だけに縛られず、自分のためによりよく生きていくことを考えること。



マザーテレサが遺した多くの言葉の中で、私がいつも思い出し、大切にしている言葉がある。

「人間にとってもっとも悲しむべきことは、病気でも貧乏でもない。自分はこの世に不要な人間なのだと思い込むこと。」

「最悪の病気と最悪の苦しみは、必要とされないこと、愛されないこと、大切にされないこと、全ての人に拒絶されること、自分がだれでもなくなってしまうこと。」




彼女への憧れや尊敬の念は、おとなになった今でも全く薄れない。


私はいつも、「あなたが大切だ」と伝えられているだろうか。

そういう風に自問自答しながら、今日も子どもたちと向き合う。




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