「昭和史サイエンス」(3)

人間観の修正を迫ったソマティック・マーカー仮説

 私たちは従来、人の思考形成は知性を用いてなされると考えてきました。こうした考えに修正を迫ったのが、脳神経科学の権威、アントニオ・ダマシオの研究です。思考形成の中核をなすのは知性ではなく、感情だとダマシオは指摘します。(厳密には、「感情」より「情動」という用語が適切なのですが、本書では前者で統一します)
 本書のテーマと関連するのは、ダマシオの「ソマティック・マーカー仮説」です。彼の著作『感じる脳』(ダイアモンド社)の冒頭に田中三彦氏による「訳者まえがき」があり、ソマティック・マーカー仮説がやさしく解説されていますので引用します。

 われわれの日常生活は、「さて、つぎはどうすべきか?」という、考えられる多数の選択オプションの中から妥当なものを一つだけ選択する「意思決定」の連続からなっている。普通、最善の意思決定は「合理的、理性的」になされると考えられているが、ダマシオはそうは考えない。もしわれわれが多数のオプションを一つひとつ合理的に検討し、そうやって最善の一つを選択しているのだとすると、あまりにも時間がかかりすぎるからだ。実生活において妥当な選択が比較的短時間でなされるのは、特定のオプションを頭に浮かべると、たとえかすかにではあっても身体が反応し、その結果たとえば「不快な」感情が生じ、そのためそのオプションを選択するのをやめ、こうしたことがつぎつぎと起きて、多数のオプションがあっという間に二つ、三つのオプションにまで絞り込まれるからであり、合理的思考が働くのはそのあとのこと、とダマシオは考えている。では、なぜこのようなことが起きるのか。ダマシオによれば、過去にわれわれがオプションXを選択して悪い結果Yがもたらされ、そのために不快な身体状態が引き起こされたとすると、この経験的な結びつきは前頭前皮質に記憶されているので、後日、われわれがオプションXに再度身をさらすとか結果Yについて考えると、その不快な身体状態が自動的に再現されるからだという。これがダマシオの名を一躍有名にしたソマティック・マーカー仮説(somaticは「身体」という 意味)である。

 思考形成の中核を形成するのは知性ではなく感情である、というのがダマシオの考えです。それどころか、思考形成には心だけではなく、身体も大いに関係するとのことです。
 ダマシオの考えが基本的に正しいのであれば、心のなかで愛情ではなく憎悪が大きなウェートを占める「憎悪優位」型の脳の持ち主は破壊衝動の持ち主となり、人間社会を破壊する方向に働く考えに快感を抱き、そうした思考を正しいとみなす傾向が高まることでしょう。
 私たちには自己欺瞞の能力が備わっているのですから、本当は危険な考え方でも、一見耳障りのよいストーリーに転換することが可能なのです。破壊衝動に自己欺瞞が加わると、それはとんでもない破壊力を秘めてしまうことさえ少なくありません。
 そして近年、人の一生を考えるとき、知性のような認知系よりも感情や意欲といった非認知系の重要性に注目が集まりつつあるのも、ダマシオの仮説に沿った一環といえるでしょう。破壊衝動の強い人は、幼少期に親の豊かな愛情を与えらていないことが多く、それゆえ被害者意識が強くなる傾向が高く、健全な思考形成(意思決定)を妨げる一因となっていることも非常に重要な点です。

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