【論考】野蛮な資本主義が還ってきた———それは自制などしないだろう/グレイバー

以下は、ザ・ガーディアン紙2014年5月30日付記事、デイヴィッド・グレイバー「野蛮な資本主義が還ってきた———それは自制などしないだろう」(David Graeber, Savage capitalism is back – and it will not tame itself)の試訳です(一部省略)。もっともすぎるピケティ批判です。ただし、ピケティはグレイバーの大著『負債』のファンのようで、グレイバーの新著には「『負債』大好き(I love ”Debt”)」とのピケティの献辞もみられます。誤訳のご指摘、精緻化のご提案、いただければ幸いです。(M)

http://www.theguardian.com/commentisfree/2014/may/30/savage-capitalism-back-radical-challenge


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ふりかえれば、1990年代には、よく資本主義についてロシアの友人たちと議論をしたものだ。ほとんどの若い東欧の知識人たちが、たとえ自分の国のプロレタリア大衆がそれにいまだ深く懐疑的であったとしても、特定の経済システム[資本主義]と関係していれば、なんであっても熱狂的に支持した時代である。自国を民営化/私有化しておのれのふところに入れてしまう、寡頭政治のおえら方や腐敗した政治家の犯罪じみたやりすぎにふれると、いつもかれらは肩をすくめるだけだった。

「アメリカをみなよ。19世紀だったら、鉄道がらみの話とかだと、こんなしょうもないことばっかりだったじゃないか」。20歳そこらの陽気なメガネのロシア人がこう説明してくれたのもおぼえている。「ぼくたちはまだ野蛮な段階にいるんだ。資本主義が文明化するには数十年はかかるものだろう」。

「でも資本主義が自動的にそうなると思う?」

「歴史をみなよ! アメリカじゃ泥棒男爵だらけだったろう。でも50年後にはニューディールじゃないか。ヨーロッパだと福祉国家だ」

「でもセルゲイ」(本当の名は忘れた)、と、私はあらがった。「それは資本家連中がイイ奴になろうと決めたからそうなったんじゃないぞ。かれらが君たちみたいな人間を怖れた結果だ」

かれは私の朴訥さにすこし感銘をうけたようだった。

当時、だれもが受け入れなければならなかった一連の前提があって、それらを受け入れていなければ、議論に入ることすらできなかった。それらは、あたかも自明の等式のようなものであった。「市場」とは資本主義のことなり。資本主義とは上層への富の集中であるが、急速な技術的進歩と経済成長でもあるなり。成長とは豊かさの上昇なり、ひいては、中産階級の増加なり。ひるがえって、豊かな中産階級の増加とは、つまるところ安定した民主的統治なり。十年のちに、私たちは学んだ。これらの前提のひとつたりとも正しいとは考えることはできない、と。

トマ・ピケティの大ヒット作『21世紀の資本』の本当の意議は、それがげっそりするほど微細に(小さな点で論争があろうことは予測できるもののこれは依然本当だ)、すくなくとも一つの核となる方程式の場合、数がうまくそろっていない※ことを示しているということにある。資本主義は、みずからを文明化する内在的傾向をもってはいない。放っておくなら、資本主義は経済成長率より投資への収益率の方をはるかに高く引きあげることだろう。そのため、ありうる見込みはただ一つ、ますます多くの富が投資家である世襲エリートの手にわたりながら、それ以外の万人は相対的な貧困に追いやられていく、というものである。

※http://www.nakedcapitalism.com/2014/05/thomas-piketty-pulled-reinhart-rogoff.html

言い換えれば、おおざっぱにいって1917年と1975年のあいだにおきたことは———資本主義が実際に高成長と相対的に低い不平等をつくりだした時期である———歴史的な例外に属する事態であった。経済史家のあいだでは、このことはますます認められつつある。この理由を説明する理論はたくさんある。金融サービス機構の前理事長であるアレール・ターナーによれば、高成長率と大衆的な労働運動の双方を可能にしたのは、20世紀中盤の産業テクノロジーの特異な性格である、ということになる。ピケティ自身は、世界戦争間の資本の破壊と、戦争動員が可能にした高率の課税、そして規制を指摘している。人によって理由はさまざまである。

多くの要因がからんでいるのはまちがいない。だが、ほとんどだれもがもっともあきらかなことを無視しているようにおもわれる。資本主義が広範でかつ拡大する豊かさをあたえることができたようにみえた時代は、また、これが唯一の世界であるとは資本家が感じていなかった時代でもある、ということである。つまり、この時代に、かれらは、ソ連陣営や、ウルグアイから中国にいたる革命的な反資本主義運動、そしてすくなくとも国内での労働者の蜂起の可能性という世界規模のライバルに直面していたのである。言い換えれば、高成長率によって資本家がより大きな富をばらまけた、というよりも、資本家たちがすくなくとも労働者階級のある部分には十分な支払いをしなければならないと感じていたという事態が、ふつうの人々の手によりたくさんのお金を結果としてもたらしたのである。そしてそのことが消費者の需要をたかめ、それがまた資本主義の「黄金時代」を特徴づけるきわだって高率の経済成長をもたらすことになったのである。

1970年代から、そのような重大な政治的脅威が退潮していくにつれ、ものごとは正常な状態、すなわち、ケチな1%が社会的、経済的、技術的停滞の高まりに特徴づけられる社会的秩序に君臨するという、野蛮な不平等へと舞い戻っていった。・・・

対照的に、ピケティはその著作を、「怠惰な反資本主義的レトリック」を否定することではじめている。資本主義それ自体には———あるいはついでにいえば、不平等にすら———抵抗しない。かれの望みは、たんに、寄生的レント生活者という無用な階級をつくりだしてしまう資本主義の傾向を抑制することにすぎない。その結果、ピケティの議論は、左派は富の集中に課税と規制をかける国際的機構の創設に力をつくす政府を選挙でえらぶことに集中せよ、という程度のものになる。かれの提案のいくつか———80%の所得税!———はラディカルにみえるかもしれない。しかし、資本主義とはわずかのエリートの手に富を吸い上げる巨大電気掃除機であると提示しながらも、かれのいわんとするところは、掃除機のプラグを抜け、ではなく、たかだか、それよりちょっと小さな電気掃除機を反対向けにしろ、ぐらいのことなのである。

さらにいえば、かれは、自分の本がどれほど売れようが、あるいは、金融エリートや政策立案するエリートたちとどれほど会議を開こうが、なんの意味もないことがわかっていないようにもみえる。2014年に左派寄りのフランス人知識人が、資本主義体制を転覆したいのではなく救済したいだけなのだ、と安全に宣言できるという事実そのものが、そうした改革など一切起きるはずもないことの理由そのものなのである。どんなに巧みに説得しようが、1%はみずからすすんで富をさしだそうとはしない。それにかれらは、過去30年間もかけて、メディアや政治に縛りをかけ、選挙ではだれもそんなことができないようにしてきたのである。

正気の人間ならだれもソ連のような体制を復活させようとはのぞまない。だからこそ、私たちは20世紀中盤の社会民主主義のようなものものぞむことはできない。というのも、資本家にとってそんな体制と張り合う必要もなくなったからである。停滞、窮乏、エコロジカルな破壊へのオルタナティヴをのぞむのならば、私たちはこの機械のプラグをぬき、ふたたびやりなおす方法を考案しなければならないのだ。

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