【論考】資本主義はどのようにして終わるのか?/ウォルフガング・シュトリーク

以下はNew Left Review誌87号(2014年5,6月号)に掲載されたウォルフガング・シュトリークの長大な刺激的論文「資本主義はどのようにして終わるのか?」(Wolfgang Streeck「How Will Capitalism End?」)のごく一部の試訳です。リンクを張ることはできませんが、誤訳や精緻化のご指摘をいただければ幸いです。(S)


なお、緊縮政策とユーロ圏におけるドイツのポジションをめぐる議論のなかで、あらためてドイツとオルドリベラリズムの関係が問われ、ネオリベラリズムのプロジェクトとしてのEUの意味が問われつつあるようにおもいますが、その論議の中心の一人がシュトリークであるようです。以下のブログを参照。

http://hanskundnani.com/2015/02/14/neoliberalism-and-ordoliberalism/


————

私がいいたいのは、資本主義の終焉について、それに代わるものはなにか、という問いに答える責任を引き受けることなく考察することを学ばねばならない、ということだ。歴史的な一時代としての資本主義は、あたらしいより良き社会が視界に入ってはじめて、あるいは、人類の前進のためにより良き社会を実現させる意志をもった革命的主体があってはじめて、終焉を迎えるだろう、というのはマルクス主義者———あるいはより正確にいえば近代主義者———の偏見である。これは私たちの共通の命運へのある程度の政治的統制を前提としているが、ネオリベラルーグローバリゼーション革命によって、集合的主体や集合的主体への希望を破壊されたあとでは、夢想すらできないものである。オルタナティヴな未来についてのユートピア的展望も超人的予見力も、資本主義がその神々の黄昏(Götterdämmerung)に直面しているという主張に妥当性をあたえるためには必要ではないはずだ。私はよろこんでこの主張をおこなうが、もちろん過去にいくども資本主義が死を宣告されてきたことをよく知っている。実際、資本主義の主要な理論家たちのだれもが、一九世紀中盤にこの概念が使用されはじめてこのかた、差し迫った終焉を予見してきた。マルクスやポランニーのようなラジカルな批判者だけではない。ウェーバー、シュンペーター、ゾンバルト、ケインズのようなブルジョア的理論家たちもそこにはふくまれるのである。

理に適った予見にもかかわらず、その事態[資本主義の終焉]は生じなかったということをもって、それがこれからも決して生じないだろうということにはならない。ここでもまた、帰納的証明は存在しないのだ。私がおもうに、今回はちがう。一つの徴候は、資本主義の主要な技術家たちですら、今日、このシステムをふたたびうまく機能させる手がかりをもたないということだ———たとえば、最近公刊された2008年の連邦準備制度理事会の審議の詳細や、あるいは「量的緩和」をいつやめればいいのかを確定するための中央銀行の絶望的な模索をみよ。しかしながら、これは問題の表層にすぎない。その深層には、資本主義の進展がこれまで、それを限界づけることで安定させることのできた主体/機関[エージェンシー]を多かれ少なかれ解体しているという、確固たる事実がある。つまり、ポイントは、社会経済的システムとしての資本主義の安定性は、対抗勢力によって———資本蓄積を社会的な抑制と均衡のもとにおく利益諸集団や諸制度によって————その勢い(Eigendynamik)が抑制されることに依拠していた。このことが意味するのは、資本主義は成功しすぎたためにみずからを掘り崩しているのではないか、ということである。・・・

私が資本主義の終焉———私はすでに進行中であると考えているが———にもつイメージは、実行可能なオルタナティヴの不在とはかかわりなく自分自身の内的原因から、長期にわたって荒廃をふかめていく社会システムといったものである。資本主義がいつどのようにして消滅するか、そのあとになにがくるのかを知ることはできないが、問題なのは、経済成長、社会的平等、金融的安定性における三つの下降する趨勢を反転させ、その相互強化のプロセスの根を断ち切ることを期待できるいかなる勢力もみえないことである。1930年代とは対照的に、今日、資本主義社会に一貫したあたらしい調整[レギュラシオン]体制をさずけうる政治経済的定式は、左派の地平にも右派の地平にもみえていない。システム的統合も社会的統合も、回復不能なまでにダメージを受けているようにみえるし、さらに悪化をはじめているようにもみえる。この先に一番ありえそうなことは、小規模のあるいはもっと大きな規模の機能不全の継続的な蓄積である。それ一つをとれば致命的とはいえないが、改善の余地がなく、それが積み重なれば積み重なるほど、個別の手におえなくなるというような。この過程で、全体を構成する部分は、ますますたがいにバラバラにほどけていくだろう。あらゆる種類の摩擦が、増殖するだろう。因果関係はますます見えづらくなり、予期せぬ結果が蔓延するだろう。不確実性も拡散するだろう。あらゆる種類の———正当性、生産性の、あるいは双方の———危機が、予見可能性や統治可能性がさらに小さくなる一方で(すでに数十年間そうであるが)、短期間のうちに、たてつづけに生じることになるだろう。最終的に、短期の危機管理のために考案されたおびただしい一時的処方箋も、重度のアノミー的混乱状態にある社会秩序の生む日々の災厄の重みのうちに解体することになるだろう。

資本主義の終焉を出来事ではなく過程として把握することは、いかに資本主義を規定するかという問題を惹起する。社会は複雑な構成体だから、有機体がそうであるように死ぬわけではない。完全に絶滅するというまれな事例もあるが、不連続性はつねにある連続性のうちに埋め込まれている。私たちが、ある社会が終焉をむかえたとするとき、その社会に本質的であるとされるその組織のいくつかの特徴が消えたということを意味している。だから、それ以外の特徴は生き残ることもある。資本主義が生きているか、死につつあるか、あるいは死んだかを規定するために、資本主義をここで、次のように定義したい。私的に所有された資本と商品化された労働力を結合する「労働過程」を通して、資本蓄積の追求における個人の合理的で競争的な利潤最大化の意図せざる副次的効果として、集団の再生産が確保される近代社会、と・・・。おもうに、現代資本主義がもはや維持できないのはこの前提である———自己再生産的で維持可能で、予見可能で、理のとおった社会秩序としてのその歴史的存在が終わりつつあるのである。

このように定義された資本主義の解体が、だれかの青写真にしたがうとは考えにくい。衰退の進行とともに、必然的に、政治的異議申し立てや多数の集団的介入の試みがあらわれるだろう。しかし、長いあいだ、これらはおそらくラッダイド的なものにとどまるだろう。つまり、ローカルで、分散して、調整されぬまま、「プリミティヴ」なものにとどまるということである———混乱を促進するにしてもあたらしい秩序を形成することはできない、だが、最良の場合、意図せずして新しい秩序を生みだす手助けをするということはある。この種の長期的な危機が、改良主義的ないし革命的主体のためにいくつかの機会をあたえるのではないか、と考えるむきもあるだろう。しかし、脱組織化された資本主義はみずからを脱組織化するだけでなく、その対立者も脱組織化し、資本主義を打倒する力もそれを救出する力も奪ってしまった。資本主義が終わるためには、かくして、自分自身を破壊しなければならないということになる———それがまさにいま生じている事態であるということをいいたいのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?