明朝体の明日

従来のTV・ラジオ・新聞・雑誌メディアからinternet メディアへ主役が移行し、Web関連の動画、SNS等が主役メディアとして認識されることになったが、あまり誰も指摘していないと思えるのが、webメディアでは、本文やタイトルや見出し等に、明朝体が使われない事だ。

日常的に会社に勤務し、文字について見た時、モニター画面では、例えばグループウェアしかり、Saasアプリしかり、このNoteしかり、多少の文字の大小と、若干ボールド体にするかどうか程度の選択肢しか行えない。(大概のデフォルト設定)これは、それで事足りるというアプリ提供側の認識の現れであり、企業一般ではそのような書体の選択など、ユーザーは不必要であろうとの認識なのだろう。

従来メディアの紙の読み物類は、基本的にまず明朝体の使用が前提にあり、本文にゴシック体が使用されることは、internet以前は多くはなかった筈だ。しかし、Windowsでいえば、OSもブラウザもデフォルトがゴシック体に指定されている事で画面で読むSNSなどのコンテンツのほとんどの本文がゴシックになった。

本文がゴシックだから、タイトル見出し類もゴシックになるのは自然なことかも知れないし、内容によってあえて「和」を強調したい時だけ明朝体が現れるようになるのも自然な事なのだろう。

ゴシック体が多くなった別の理由をもうひとつ付け加えるなら、文字間、特に漢字とカナ(カタカナ・平仮名)の間の空間処理(カーニング・トラッキング)に明朝体ほど悩まなくて済むからという理由もあげられるだろうし、この他でいえば、
●同じスペースならという、より主張を強く見せる為の選択
●文字そのもののデータ容量の差(止めのウロコなど遥かにゴシック体より、描く曲線の量が多い)
等の諸々の理由もあって、デジタル画面上はゴシックが選択されてきたのだろう。

また、欧文は自動的にこの文字間の処理をしてくれる事に反し、日本語の持つ独特の理由(漢字の密度[画数多]とカナの密度[画数少])もあり、デザイナー自らがこの処理をしなくてはならなくなった。さらにWebメディアであるなら、この点についてはプロポーショナルフォントを使う程度の関与しか出来ない。

だから、ゴシック体が全盛になるのは自然な流れなのだろう。

しかし、この点、グラフィックデザインを職業にしている人がどれだけ、自覚的なのだろうかと、思う。

また、この、カーニングとトラッキングをどうすべきかについては、そもそも文字の大小(例えば200ptと20ptでは、文字間の空きに関する感覚が違う)とその視認距離で感じ方が違う事もあり、一律にどうすべきと言う事が難しい。

例えば、設定値を複数行の文字を頭ゾロエにしても、それで頭ゾロエにはならない。この点は鈴木一誌の「ページと力」(P.243)を参考にしてほしい。

https://1000ya.isis.ne.jp/1575.html

松岡正剛氏「千夜千冊」

見た目に頭ゾロエになるまで調整が必要だが、そこまで気を使っているエディトリアルデザイナーは、あまりいないのが現実だし、Webであれば、文字を画像として処理する以外で、そこまでデザイナーが関与できる事もない。

このままでいけば、この調整が必要だと考えるデザイナーが消滅するのではないのか? とさえ思える。

Webデザインの議論の中には上記、日本語の文字をどう扱うかが全く聞こえてこないように思う。なぜなら欧文ではこれが問題になることもないので、問題意識を持つ人があまりいない為ではないのか?

一般ユーザーならまだしも、選択・提供しているデザイナー側が、無自覚であれば、このまま自然に明朝体の選択そのものが淘汰されるのではないか?とさえ、思える。

思い出すのだが、過去に、文学作品は「明朝体の本文」であることにあれだけ、固執した作家達のあのこだわりは一体なんだったのだろう。

いずれにしろ、いつも混ぜっ返す人が言う「読めれば何でもいい」という短絡的な解にはしたくないものである。


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