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【人物ルポルタージュ】29万票の金利~山田太郎と「表現の自由」の行方<前編>

「マンガ・アニメの表現の自由」をめぐる騒動は尽きない。おおよそ、この世に表現というものが生まれてからというもの、時の権力や世の良識と対峙するのは、あらゆる表現の宿命というもの。

 けれども、それは大衆が議論する政治的な課題とはなりにくい。先月行われた東京都議会選挙でも「表現の自由」を争点としようという試みはあった。「表現の自由」に関心のある候補者が当選、あるいは落選はした。けれども、豊洲への市場移転などのテーマに比べれば関心を持つ人が少なかったことは否めない。

 昨年「マンガ・アニメの表現の自由」を掲げて参院選に挑み、29万票超を獲得するも落選した山田太郎。この一人の人物を通して「マンガ・アニメの表現の自由」の実情を記していこう。

【「表現の自由」を求めた都議選署名活動に欠けた熱】

自動ドアが開き、一歩外へ踏み出す。そこは、夕方の目黒駅前のロータリーの雑踏。とたんに、長いため息が出た。

 まだ梅雨にも入らず、春とはいえず初夏ともいえない微妙な天気。夕方の曇り空は、やさぐれたため息を促して止まなかった。ロータリーの騒がしい靴音。バスの発車と停車の音。電車の走行音。すべてがうっとうしく感じられた。構わず背広の右ポケットをさぐって、煙草を一本取り出す。

 クールブーストの8ミリ。かれこれ10年以上慣れ親しんでいる紙巻きの特徴である、フィルターの部分に入っているメンソールの塊を指でプチっと潰して、行ったこともないラブホテルの名前が書いてあるライターで火をつける。吸い込む煙草の煙は、猟犬のような獣性を抑えようとする。

 二口、三口と吸えばギザギザに尖った心臓の表面は、少し穏やかになっていく。だが、腹の底からわき上がる、どうしようもない気持ちは治まる気配がなかった。

 ふと、視線を向けた先にサーティーワンの看板が見えた。半分ほどになった紙巻きをもみ消して、店に入る。

 長らく入ったこともないアイスクリーム屋は、非日常の空間。明るい店内、カラフルな模様。中年の我が身にとっては、一人でディズニーランドに入ったような場違いな感じ。

でも、多少は気分が高揚して、ザラザラした魂を慰めてくれる。アイスクリームの並ぶショーケース。それは人間の魂の根源を揺さぶるワンダーランド。それをじいっと見て、今の自分を冷やしてくれそうなフレーバーを探す。

「今なら、こちらがお得ですよ~」

 若い女性店員が、明るい顔で示すのはトリプルサイズ。ああそうだ。ひとつやふたつ食べただけでは、とても気分は治まりそうにない。でも、3つならどうか。そんなに、食べれば違うかもしれない。

 じいっと、ショーケースを眺める。毒々しいような神々しいようなフレーバー。横文字で記された名前を見ても、いったいどれがどんな味なのだか、半分くらいは想像もつかない。だから、フレーバーの選び方は保守的になる。

「チョコレートミントと、ストロベリーチーズケーキと。あと、あれ……口の中がパチパチするやつをください」

 そんな注文も、店員は慣れた感じで対応してくれる。そうそう、口の中ではじけるヤツは、ホッピングシャワーという名前だった。

 ああそうだ。今、欲しいのは刺激だ。

 会計を終えて、席に座る。カップに入った白と青と、なんだかわからない彩りの丸いアイスクリーム。ピンクの小さなスプーンで、なるべく大きくすくって舌の上に転がす。

まずは、チョコレートミントから。ミントの味はすうっと爽やかだけれども、何か物足りなかった。二口、三口と舌の上に乗せても変わらない。

 あ、最初からパチパチと弾けるやつにすればよかったんだよ……。スプーンで、ごっそりとすくって舌の上へ。でも、ホッピングシャワーも同じだった。舌の中でパチパチと弾ける音がする。

 その刺激は思っていたものと何かが違った。陰鬱な気分をすべて吹き飛ばしてくれるような刺激を期待していた。記憶の片隅にあるフレーバーは、舌の上で思い切り弾ける攻撃的な味だった。

 けれども、今、口の中にあるのは、子どものいたずらのような優しい刺激だった。恋人同士や家族連れならば楽しいであろうパチパチ弾ける音は、今の私を満足させることはなかったのだ。一口ごとに、甘い砂糖は満腹感だけを与えていた。

 それは、ランチの店選びをしくじった時に味わうような、寂々たる満腹感だった。

 時刻はすでに夕方6時頃。どこか刺激的な店にでもいこうか。iPhoneをズボンの左ポケットから取り出して、黒い画面を眺めてから、すぐにもとに戻した。次は新橋で人と会う約束をしていたのを思い出したからだ。

 店を出て、山手線に乗る。ドアが閉じて電車が走り出してから、内回りと外回りを間違っていたのに気づいた。まったく、気分を切り替えることはできなかった。

 深夜になり、事務所に帰ってからパソコンを開きICレコーダーに記録された録音をコピーした。テープ起こし用のソフトを起動して、ファイルをドラッグする「20170524山田太郎.MP3」と、ファイル名が表示される。テープ起こしは、単に文章を書くための作業ではない。

 取材の時には、聞き流していた言葉の中に、話の本質を見つけることもある。だから、取材して書くためには欠かせない作業である。レコーダーのマイク性能が進化した昨今では、相手の息づかいの変化や、立ち居振る舞いも音として、改めて確認することができる。いつもは、なるべく記憶の新しいうちに。多くの取材の場合には24時間以内に、その作業を完了させなくてはならないと自分に強いている。何よりも、かかる時間は短くても実際の取材時間+50%。明日にしようと寝てしまえば、途端に面倒くさい作業になってしまうものだ。

 そんなことはわかっているのに、いっこうにcommand+1のショートカットキーを押して再生をスタートする気にならなかった。一文字もテープ起こしをする気が起きなかったのだ。ふと、その日の取材のことを考えても、何も心を打つ言葉も、これは、すぐに聞き直して文字にして、本文の中で使わなければならないと心の躍る発言も思い出すことはできなかった。耳掃除をしたり、爪を切ったり、YouYubeで海外のポップスのPVを見ているうちに、ただただ時間だけが過ぎていく。

 パソコンのブラウザを開き、虚鵜の取材の発端となったサイトへアクセスする。

<Change.org>

 それは、数多の要求に彩られたインターネット署名サイト。

 その中に、目的のページはひとつ。

【都議選候補者殿】マンガ・アニメ・ゲームの自由を守ることと、コミケなどのビッグサイト会場問題の解決を都議選公約に入れて下さい!

 私は考えた。1,000か2,000文字程度の記事をさっさと書いて、お茶を濁せばよいのに。なぜ、私はそうしないのか、と。

【身内の裏切りにも腹は立たない】

「腹なんか立たないですよ。だって、前に会社をやってた時には、株主たちから何度も難詰めされたことがありました。業績は上げているのにですよ。そんな理不尽を知っているから……」

 目黒駅前のロータリーに面したMG目黒駅前ビル。そのオフィス階には、いくつものベンチャー企業が入居している。その7階の一室が、現在の山田太郎の事務所である。ベンチャー企業向けのレンタルオフィスというのも様々である。中には、薄いパーティションで区切られただけの狭苦しい物件もある。でも、初めて足を踏み入れたそこは、存外に会社としての見てくれの整ったフロアであった。

 ふくよかに育った腹を抱えて泰然とソファに座る山田を前にして「腹が立たないんですか」と聞いた。

 私が山田が内心では腹を立てているのではないかと思ったのは、移ろいやすい支持者のことであった。

 見本のような名前が本名の男を、どの程度の人が知っているだろうか。山田は、二期目を目指した昨年の参院選で「落選して」取材が殺到した希有な人物である。比例区で29万票を超える個人名の得票を集めながらの落選。しかし、ネットを重視した選挙活動で大量得票に成功し、オタクの支持を集めたことで、注目を集めた。

 これまで、今は世田谷区長になった保坂展人をはじめオタクの好む「マンガやアニメの表現の自由を守る」ことを、公約として掲げる候補者はいた。けれども、オタクへのアピールが票に結びつく成果となったことはなかった。それを山田は覆したのだった。これは、誰も予想し得ない成果だった。

 何しろ、参院選を前に山田が立ち上げた「表現の自由を守る党」は、メールを送るだけで誰でもサポーターになることができたが、それでも3万人に達することはなかった。それ以前に、山田の秘書である坂井崇俊を中心に、山田を名誉顧問として立ち上げた「エンターテイメント表現の自由の会」も、コミックマーケットで同人誌を売ることを除けば、まったく存在感がなかったからだ。

 しかし、インタビューに赴いた今年5月。都議選を前に山田が始めた新たな活動は、見方によっては惨憺たる結果に終わろうとしていた。都議選候補者に対して「マンガ・アニメ・ゲームの表現の自由を守る」「オリンピック・パラリンピック時のビッグサイト会場問題の解決」を公約として掲げることを求めたネット署名。

 それは、築地市場の豊洲移転問題や、小池百合子都知事の政治に対する是否が争点となる中で、この問題はほとんど話題になっていなかった。

 署名を始める直前に、坂井は私にFacebookのメッセージで、この署名を取材をして記事にしてくれないかと打診をしてきた。この時から、私はなぜかしら、容易にはうまくいくことはないだろうという予感があった。

 山田の支持者……オタクたちに通底する移ろいやすさを、幾度も見ていたからである。

【用済みになれば捨てられる宿命】

 それは、昨年、参院選も終盤になった7月8日の金曜日の夜のことであった。8時までの演説が終わり、山田の選挙事務所には、山田が選挙中には毎日行っていたニコニコ生放送を見ようと大勢の人々が集まっていた。向かいの公園にある喫煙所で、一服しようと外に出た私は、電信柱の横で女性と親しそうに話している西形公一の姿を見つけた。

 西形は、90年代から「マンガ・アニメの表現の自由」を守る運動に参画している古株で「エンターテイメント表現の自由の会」には、機関誌の副編集長として名を連ねている。池袋の繁華街で家業の焼き鳥屋を手伝いつつ、運動に参加している西形の活動の今後も、山田氏の去就で決まるのではないか。そう思った私は、2人のに近寄って尋ねた。

「なあ、山田が落選したらどうするんだい?」

 すると西形のかわりに、傍にいた女性が身を乗り出すようにして、勝ち誇った顔をして、

「ほかに担ぐ神輿も探してますから!」

 というので、私は驚いた。この女性が何者かまったく知らなかった。事務所に何度か西形と一緒に尋ねて来ている姿を見ただけ。何かの時に、横で都の教育庁に勤めているという話をしているのを聞いた程度であった。なぜ、この女性はそこまで強気な発言はできるのだろうかと思った。でも、私は女性にではなく西形に尋ねた。

「今から、ハシゴを外しにかかってるの?」

「だって、うちは消費者団体ですから」

 西形は、自信ありげに笑みを浮かべながら答えた。理由はわからないが、触れてはならない、禍々しいものを感じて、私はその場を離れた。この西形という男は、90年代に「マンガ・アニメの表現の自由」を守る市民団体「マンガ防衛同盟」を立ち上げた、いわば界隈の古参である。そして、毀誉褒貶の激しい人物でもある。古くから、この男を知る人は、西形がいるから「エンターテイメント表現の自由の会」は相手にしてはダメなのだとも口にする。私は、そこまで酷い人物なのか、今ひとつ判断に迷っていたが、ようやく、この男の本質が見えた。

 西形自身、かつては政治家を志し、1999年には青梅市議選に立候補して落選した。にもかかわらず、元妻のほうは2001年の小平市議選に当選。一時は、海外へ移住し新天地を求めるも、結局は家業を継いでいる。そんな人生の道程で鬱屈した何かを抱えたのだろうか。自身の思いのままの結果が、そんなさもしいものだとしたら、とても悲しいことだと思った。

 実は、この事件よりも前に、選挙事務所に手伝いに来ていた会のメンバーの男性に同様のことを聞いてみたら、西形と同じような顔をして「ほかを探しますよ?」と返される体験をしていたからだ。選挙事務所に集い、支持者のような顔をしておきながら、腹では、二心を持って自分の信者を集めている。いざとなれば、沈む船からはさっさと逃げ出す算段を話し合っているのだろうか、と思った。

 仮にも会を取り仕切っている坂井は山田の秘書である。秘書が仕切りながら、なぜこのような偽りの支持者ばかりを集めているのか。事務所に戻って、坂井に、ついさっきあった出来事を述べた。

「代わりがいないんだよ……」

 坂井は、寂しそうに下を向くだけで、西形を問いただそうとはしなかった。フリーでコンサルタント業を営んでいた坂井は、山田が最初に出馬する時に請われて「選挙の期間中だけでよいのか」と勘違いして秘書になった。

 秘書としての坂井は優秀である。山田が何かのアイデアを思いつくと、パワーポイントを使ってすぐに人に見せることができる形にまとめたりして、何を任せてもそつがない。そんな坂井は京都大学を卒業後、一度は大手銀行に就職したが、そこで与えられた業務に嫌気がさして退職し、コンサルタント業の世界に入った。

 銀行を辞めたのは、業務とはいえ顧客にとって役に立ちそうもないサービスを販売するノルマを強いられ、良心が耐えられなかったからだ。

「コンサルは、自分の責任でクライアントとの関係だけでできるのがいい」

 そんな一言に、坂井の人となりが、すべて含まれている。

 私がインタビューの中で、山田に腹が立たないのか尋ねたのは、顔もわからない一人の有権者ではなく、いわば身内ともいえるような距離に、腹に一物を抱えた人物が混じっていることであった。私の左側に少し離れていた坂井は、この話題を出した途端に、何か仕事を思い出したとばかりに、山田の背後にある自分のデスクに戻っていった。そこに坂井の本質的な優しさが見えた。

 そして、山田の「腹が立たない」という言葉にも、まったくウソがないように見えた。

 山田が腹が立てないのか、不思議になること……参院選の後にはこんなこともあった。

 昨年の10月、私も所属している出版労連が主催する出版研究集会。その中で「出版の自由分科会」が開催された日のことである。

 会場の出版労連が入居するビルの前で、携帯灰皿を取り出して煙草を吸っていると「表現の自由」を守る講演会などを企画するNPO「うぐいすリボン」の理事・荻野幸太郎がやってきた。

 荻野は国内外の「表現の自由」に関する知識人と関係を築き、オタクの意志を現実的な政策に反映させようと、様々な政治家に働きかける「ロビイスト」である。

 なんとはなしに、世間話をしていると荻野が、笑いながらこんなことをいった。

「8月に松浦さんが山田さんところに就職の相談とかで挨拶に来たんだけどさあ。山田さんが『あいつ、もうダメだなあ』っていってたんだよ」

 松浦とは、昨年の参院選に秋田選挙区から出馬した民主党の松浦大悟のことである。松浦は、もとは秋田放送のアナウンサーで、03年のイラク戦争の最中、夕方のニュース番組でキー局が流す戦争報道に我慢できず「これは、アメリカ寄りの視点である」と発言し左遷された気骨のある人物だ。失意の彼は、請われて07年の参院選に無所属で出馬し当選。

 その後、民主党に入党し県連代表の任された。何よりも、サブカルチャーへの造詣が深く、オタクの味方をしてくれる議員の一人として活動していた。しかし、13年、16年と続けて落選。二度の落選をみて民進党は県連代表まで務めた松浦を、用済みとばかりに放り出した。当選直後に知り合って以来、長らく友達付き合いをしてきた私は、様々な策謀が渦巻く田舎政治の中での松浦の苦労を知っていた。

 だから、一個の人間を使い倒した挙げ句に裸で放り出す民進党という組織の汚さに、私は、腹立ちを覚えていた。

 そうした事情を知っているにもかかわらず、非情な言葉を吐く荻野。そういえば、少し前に松浦と電話で話した時、落選直後に荻野が松浦に電話をしていたことを思い出した。

「松浦さん、山田さんが29万票取れたわけだから、次は首尾良く当選できる方法を考えましたよ」

「いえ、ボクはもう民主党から出馬するつもりはないんです」

「ああ……」

 だいたいこんな会話だった。「それ以来、連絡もありませんよ」と、電話の向こうの松浦は自分で自分をあざ笑うかのように話していた。そのことを知っていたから、私は山田が語ったことの次第よりも、なぜ荻野が、そんな話を人間同士の心や関係性をトゲトゲしくする噂話を、笑いながらできるのだろうかと、愕然とした。

 荻野自身は、選挙の際にわざわざ秋田県まで松浦陣営の応援に足を運んでいる。それは、単に「道具」の使い勝手を見にいっただけということなのか。

 この日の出版研究集会で、私は司会の役を引き受けていた。講師の山口貴士弁護士が、ろくでなし子裁判や、ヘイトスピーチ規制の問題を詳細に解説している最中も、幾度も客席に座っている荻野の様子を見て「この男は、何を企んでいるのだろう」と、考えていた。

 世の中には、何かとトラブルを好む人間がいる。会う人によって、発言を変えたり、曖昧な噂話を吹き込んで人間関係に波風を立てて、ほくそ笑んでいるようなヤツなのか。では、なんなのだろう。考えているうちに、先の参院選の時も、あちこちの候補者のところを飛び回っていると、忙しそうに話していた荻野の姿を思い出した。

 この男は、すべての議員を自身の考える「表現の自由」を実現するための道具と見ているのではないのか。自分の目指す現状のメンテナンス。それを実現することだけが、荻野の行動原理なのだ。だから、山田の29万票が熱を持っているうちに、あちこちに種を蒔こうと急いでいたのだ。

 そのために、役に立たないものは平気で切り捨てるのも、彼には当然のこと。だから、己の判断で、役立たずになった人間は、過去の人として昔話のように軽薄に扱うことができるのだ。でも、不思議と苛立ちは収まっていった。それは、人間の芯の部分。精神的な脆さがそうさせているのではないかと思ったからだ。

 山田のことも、役に立たなくなれば、平気で同じように縁を断ち切って、過去の人扱いするかもしれない。そんな荻野の姿に山田は気づいているのだろうか。気づいていないはずはないと思う。山田は、曲がりなりにも企業の経営者として成功をしてきた人物である。大勢の人を使う立場である。そんな周囲の人間の心情にも敏感でありながら、あえて鈍感に振る舞っているのだろう。

 でも、山田は腹は立たないという。それは、裏表のない本音の言葉だと思う。山田は落選してもなお「マンガ・アニメの表現の自由」を守ろうと発言を続けるのか。なぜ、そんな境地に達することができるのか。

【署名は2万筆程度で十分だった】

「正直、29万票のインパクトに比べると2万程度では……」

 インタビューのはじめで、ネット署名にもかかわらず、寂しい現状を指摘すると、山田は淡泊な口調で話し始めた。

「選挙前につくった表現の自由を守る党も2万ちょっと、署名でもなんでも参画するのは2万から3万止まり。それでも、ネットの世界にはサイレントマジョリティがいるんですよ……」

 その言葉の中には、まったく焦りのようなものが見られなかった。この署名は、山田にとっては久しぶりの、自分の存在感をアピールする機会としての側面もあるはず。そうであれば、常に数字が気になり、一日に何度も署名サイトにアクセスしたり、Twitterで情報が拡散しているか気になって検索を始めるはず。実際にそれをしていないはずはない。

 なのになぜ、山田は焦っていないのか。

山田の、のんびりした声は、私が以前から感じていた違和感を増大させた。横柄でもなく傲慢でもない。決して、私利私欲のために活動しているようにも思えない。けれども、その淡々とした言葉のどこにも芯になるようなものが見つからなかった。インタビューでは、相手が何気なく発した言葉に「おおっ!!」と引き込まれることがよくある。

 むしろ、それをインタビューの最中には常に、それを期待している。けれども、話を聞きながら、これは必ず使わなければならないと思うような言葉を山田はひとつも発することはなかった。

 発する言葉の裏に存在するであろう山田の芯の部分。それを見いだすことのできなかった。だから、私は、テープ起こしをする気にならなかったのだ。

 なんで、こんなインタビューになったのか、考えた。幾日か考えるうちに、漠然と見えてきた。あえて凡庸な言葉しか話さないことに、山田の独自性があるのではないかと。

 私は、数年間の取材ノートを読み返すことにした。

【秘書も知らない山田の実像】

山田に最初にインタビューしたのは、13年の5月。「マンガ・アニメの表現の自由」は、私が長らく取材してきたテーマであり、ほかのどの物書きよりも優れたものが書けるという自負があった。

 いつも、すぐに原稿にすることはできないけれども、今すぐ取材したいテーマは多い。取材費を捻出するために、頭を悩ましている私にとって幾ばくかの原稿料を得るには、最良の手段でもあった。だから、山田が集会を開いたり、新たなアイデアを披露するたびに取材をしていたが、そのたびに漠然とした違和感も感じていた。それが、なんなのかはっきりとはしなかった。

 ただ明らかなのは、山田が自身のプライベートな話になると、徹底的に秘密主義なことだった。取材してルポルタージュという一個の作品を書き上げる時に欠かせないのは、個人の心情や生き様である。社会批評を描いているわけではないから、視点は全体の状況を語るのではなく、その中で誰がどのように生きていたかに注力される。

 なぜ、この人はこういう選択をしたのか。立ち居振る舞いや、その背景にある生まれ育ちに至るまで、微に細に聞き出して、文章に血肉を通わせていく。

 でも、山田はそういうことに話が及ぶと、いつも華麗に身をかわすのだ。取材者に対してだけではない。信頼している身近な人々に対しても、そうなのである。

 例えば、住んでいる家のこと。山田が参院選の後に立ち上げた会社の登記簿に記された大田区の住所を辿ってみると、日本維新の会の参議院議員・藤巻健史が、息子に譲った物件であった。

 そのことを、秘書の坂井に聞くと、困った顔をして

「ぼく、山田さんの家にいったことがないんですよね」

 と、いったのだ。

 そんな具合だから、大田区生まれの大田区育ち。これまで、大田区以外に住んだことがないこと。麻布中・高から慶應義塾大学という学歴や職歴を除けば自分からは話すことはしない。

 一度だけ、参院選の時に、山田が休憩中に選挙スタッフの今野克義がかわりにマイクを持った時。自分の知る山田の人となりを語る中で、今野は「母子家庭からここまで……」と漏らしたのである。山田という名字で、子どもに太郎という名前をつける親。その独特のセンスには興味を惹かれるが、山田の口からそのことが語られることはない。

 それどころか、一緒に暮らす妻や娘のことにも、ほとんど触れようとはしなかった。選挙といえば家族が総出で「主人を男にしてください」とか、支持者のために土下座パフォーマンスまでする家族がいるもの。ところが、山田の妻と娘は、事務所に姿を見せることも、あまりなかった。

 最初に事務所で姿を見たときも、パーテーションで仕切られた事務スペースで静かに座っていて、支持者に、積極的に挨拶をすることもなかった。ようやく話ができたのは、山田が秋葉原で演説している時にビラまきを手伝っている姿であった。私が「奥様ですか」と声をかけると、腰を深々と下げて丁寧に挨拶をしてくれた。

「事務所でも、あまり姿をお見かけしませんでしたが」

「ええ、ボランティアの方が主体ですので……私たちはあまり表に出ずに裏方でやろうと思いまして」

「何か、別のことを?」

「ええ、『とらのあな』とか、『らしんばん』とか……オタク店舗を回っていたんです……山田の選挙ビラを置いてもらえないかな……って。いくつかは置いてくれたんですけど、店員さんは賛同するけどってところも……」

 呟きはそこで終わり、会話はそれ以上には発展しなかった。家族を利用したり人情に訴えかける土着的な選挙を、山田が徹底的に忌避していることだけは明白だった。独自の選挙スタイルへの、揺るぎない信念を支えるものを知りたくなった。

【ピースボートのスタッフだった青春期】

参院選の最中にFacebookを見ていると、年上の友人である星紳一が山田太郎の演説を聴きにいき、何年かぶりの再会を果たしたことを綴っていた。星は幾度もピースボートに乗ている人物で、外資系企業に勤務する傍らで通勤に使うバッグにも「アベ政治を許さない」とスローガンの描かれたキーホルダーをつけたり、デモや集会にも積極的に参加している強固な信念を持った人物である。

 私とは思想面では相容れないけれども、けっして偏狭な考えに陥ることなく、気の向くままに声をあげたり、あちこちを飛び回る、東京にいながら旅人のような生き方をしているゆえに、興味深い人物である。

 そんな人物と山田の接点はどこにあったのだろう。すぐに、星と顔を会わせる機会があったので、単刀直入に聞いてみた。

「再会したのは、数年前のセミナーで山田さんが講師で来たからだけど、最初はピースボートだよ」

「え、山田さんはピースボートの乗客だったのですか?」

「いや違う、スタッフのほうだよ」

 ちょうど、フィリピンでマルコス政権が打倒された頃だったという。辻元清美がフィリピンの現状について講演するというので、星は会場に足を運んだ。現在の国会議員になって、少し落ち着いた姿とは違い、聞いている人を圧倒するような声量と話術で辻元は「いま、フィリピンは大変なことになっているんです」としゃべり続けた。

 辻元が語る、新聞やテレビでは知ることのできないフィリピンの現状に聴衆はどんどん引き込まれていった。その終盤、辻元はひときわ大きな声で叫んだ。

「みなさん、行ってみたいと思いませんか!」

 星は、ぜひ行ってみたいと思った。ほかの聴衆も同じだった。絶妙な間を置いて、辻元は次の一言を放った。

「実は、もう船は用意してあります!」

 会場はどよめいた。そして、万雷の拍手に包まれた。まだようやく格安航空券が出回り始めた80年代中盤である。船ならば、相当に安くいくことができるに違いない。それに、飛行機とは違う長い船旅には、誰も経験をしたことがないロマンが感じられた。

 いったい、費用はどれくらいかかるのだろう。自分の貯金でも行くことができるのではないか。いや、多少無理をしてでも、ぜひ、この船に乗りたい。第三世界の現実を、しっかりと我が身で感じたいという情熱と、船旅へ行くという冒険心が、会場をどよめかせたのだ。

「では、詳しいことはウチのスタッフから説明してもらいます」

 辻元に呼びかけられ、眼鏡をかけた青年が檀上に上がった。青年はまず、後ろの黒板に自分の名前を書くと、聴衆のほうを向いていった。

「山田太郎です。本名です」

【世の中を自分の思うように変えたい】

山田がピースボートのスタッフになったのは、偶然であった。大学生の時、山田は國弘正雄の事務所でアルバイトをしていた。麻布高校時代に、当時の文化放送の人気番組『百万人の英語』などで、英語通として知られていた國弘を生徒会で講演に招いた縁であった。その事務所に辻元がやってきた。國弘から「この元気よいネエちゃんを手伝ってやれ」といわれて、スタッフになった。

「地球を二周くらいしたかなァ」

 山田のピースボート時代について記された資料は少ない。

 唯一見つけたのは04年6日10日付の『フジサンケイビジネスアイ』に掲載された記事である。そこには、こう記されている。

「世の中を自分の思うように変えたい」

 学生時代にそう漠然と考え、設立まもないNGO(非政府組織)「ピースボート」に参加。財務を担当し、多くの国を訪れた。「ピースボートの活動は、目的を持って何かを成し遂げたという達成感があった」この経験は、今も「その時々にこそできることがある」という信念につながっている。

 青年期に自分が変えたかった世界は、どういうものだったのだろうか。選挙中に、このことを聞くと山田は「忘れちゃったなあ」と、はぐらかした。

 誰しも青春の頃に抱いていた理想を振り返ると、誤って無駄な時間を過ごしたことへの後悔や恥ずかしさが押し寄せてきて、自嘲気味に笑うしかない。私とて、トロツキズム、そしてクロンシュタット叛乱やマフノの黒軍の鎮圧を正当化する論理を語っていた過去を指摘されれば、薄笑いをして「忘れた」というだろう。

 それでも、目指す理想の変遷があってこそ、より豊かな現在の目標が育つはずである。だから、青年時代の山田がどんな理想を持っていたのか、是が非でも知りたくなった。そこで、5月のインタビューの時に、再びこの話題を持ち出すことにした。記事のプリントアウトを示して、私は尋ねた。

「今は、どう考えていらっしゃいますか?」

「随分、昔のを持ってきたねえ……2004年……」

 山田は、少し黙ってプリントアウトした紙を見つめてから再び話を始めた。

「この時期のことをいうと、ボクは民間の製造業向けのコンサルティング会社をつくった。それは、自分を通したつもりですよ」

 山田がまず語ったのは、前述の記事で多くの文字を割いて記されている製造業専門のコンサルティング会社「ネクステック」を立ち上げたことについてであった。

「アクセンチュア……アンダーセンに入って、製造中心に一筋でやってきた。日本はものづくり大国で金融をやってもアメリカには勝てないと思っていたから……」

 製造業のコンサルティングに対する会社の無理解。日々目にしていた危機感を、山田はERP(Enterprise Resources Planning)など、専門用語を交えながら、語った。結局「自分でやるしかない」と思って立ち上げた01年に設立したネクステックは、起業からわずか3年半の05年に東証マザーズに上場。山田は一躍注目される経営者となった。

システムの匠(『週刊ダイヤモンド』2003年8月9・16日合併号)

製造分野のコンサルタントとしては、知る人ぞ知る存在(『財界』2006年4月11日号)

 ……などなど。山田を紹介する記事には、誰も手を付けなかった分野で急成長した敏腕経営者への賛辞で満ちている。

「ニーズがあったわけですよ、マーケットでね。こよなく製造業を愛している人たちが四六時中製造業のことを考えている会社をつくりたいという点では間違いなかったと思いますよ」

「あくまで、現場が第一だと考えていた?」

「そうそう」

「そう考えるに至ったきっかけはどこにあると?」

「うちは、工場でも製造業でもないし……たまたまアンダーセンで配属されたことがあると思いますよ」

「たとえ配属されても気づかない人もいるでしょう。そこに目をつけたのは、それまでの経験や理想があったからでは?」

「とは、思いますよ。ピースボートでひとつあると思うのは、日本はやはり製造大国だと気づかされたことです」

 次第に知りたいことがズレていっているような気がして、再び質問をぶつけた。

「80年代のピースボートは、半ば反体制組織でしたよね。昭和天皇が崩御された前後には、反天皇制を訴えるイベントも行っていましたし」

「そういう人もいた。いたんだけど、私が清美ちゃん……辻元さんとやっていたのは実務だよね。船の回しとか。日本人が500人とか1,000人の単位でどこかの国に入るっていうのは、簡単なように見えて、政治性を帯びちゃう。第三世界の抱える課題に対して賛成なのか反対なのか問われたり……」

 山田は何か急に熱を帯びたような感じになった。

「初めて地球一周した時に22カ国を回ったけど、こんなに大変とは思わなかったよ」

 そこで山田が見たのは、シビアな国際関係の現実だった。既に日本は大勢の国と国交を持っていた時代である。ところが、それだけ大勢の参加者がいれば、自ずと国籍も様々だ。例えば在日韓国人。当時、韓国は中国とは国交を持っていなかった。中国に限らず、乗船者の中に国交がない国の人間を見つけると、入国管理官は相応の措置をとる。時には、該当者に尿瓶を渡して、船室に外から鎖でドアが開かないようにするのだ。そういう時代に、当局と交渉して上陸許可を得る……それが、山田がこなすべき仕事だった。

「その中で新左翼活動をしているオジサンとかもいっぱいいたけど、バッカじゃないのアンタらわかってるの? と思っていた」

 どこでスイッチが入ったのだろう。山田はソファに楽な姿勢で座り直すと、青春時代の仲間たちとの面白いエピソードを、懐かしく思い出すかのように語り始めた。「清美ちゃん」の左翼というレッテル貼りでは見えてこないミーハーっぷりを語り「第三書館の北川のオヤジ」を語り……。

「戦旗・共産同(共産主義者同盟戦旗日向派)の五味洋なんて、麻布の時の一番仲のよい同級生だよ。文化祭の実行委員長をやらせたのは、ボクだし……」

「オタクの人たちには、そんな山田さんが場数を踏んできたことが見えていないのでは?」

「うん、自分ではリベラルかと思ってたら、ネットだとネトウヨだと思われていたりするし。経歴見たら極左かも……。安保法制の時は、最終的に賛成票を投じたけど、あちこちに呼ばれて糾弾されて、友達も随分と失ったよ……」

 一抹の寂しさを滲ませつつ、山田は自分の選択は決して間違っていなかったと言い聞かせているようだった。そんな山田を支えているのは自分が実務家であるという強烈な自負なのだと思った。滅びの美学などというものとは対局にある、いかなる状況にあっても、わずかな利益だけでも拾い上げていくこと。32歳で月給生活に終止符を打ち、組織には所属してこなかった。

 なればこそ、理想はあるはずだ。

「じゃあ、今の時点でこれからつくっていきたい世の中はどういうものなのですか」

「世の中をつくるほど、理想主義者でもないし偉くないけど、あるとしたら将来不安の解消ですよ」

 その言葉は私を諭すようにも見えたが、どこか自信なさげにも感じた。

「東大とか早稲田とか高学歴な大学で先生もやってたけど、そこで学んでいる学生も老後を心配している。それは、今のこの国をどうしようか解決しようとしている人がいない不信感だと思うんですよね。表現についても、息苦しくなっていく不信感がある。そうした不信感を拭わないと、よい国にはならないですよ」

 山田の思い描く目指すべき世の中。その言葉は極めてまっとうで、どこにも反論すべきところがなかった。

 いや、それは間違いかもしれない。こうも捉えることもできるはずだからだ。何も反論する気にならなかった……のだと。

 実にそうなのだ。山田の言葉は、聞けば納得をしてしまうものである。けれども、そこには何も熱くなるものがない。世の中を変革していこうという意志を持つものたちが、歴史の中で残してきたような、際だった言葉がどこにも見当たらないのだ。

 もちろん、話を聞けば、様々な分野の経験が豊富な山田を嫌いになる人はまずいないだろう。けれども、不思議なことに、共に手を取り合って戦おうという気持ちは、湧き上がってはこない。政治や社会運動には欠かせないはずの気持ちが感じられない理由が、何かあるはずだと、思った。

 山田という男は、半ば政治の世界に身を置きながら、政治家とは違う何かなのではないのか。ふと、そんな考えが頭をよぎったのは、都議選の最中であった。「マンガ・アニメの表現の自由」を守ろうと主張する人々は、Twitterなどを用いて盛んに「表現の自由」を守ってくれる候補を応援しようと、具体的な候補者の名前も挙げていた。

 その中には、私が、これまでの取材の中で下劣な人間性を見たことのある者もいた。そうした者であっても、ただ「マンガ・アニメの表現の自由」を守ろうという立場にいるというだけで、持ち上げられている姿があった。

 なんら世界が変わる感覚も、日々の生活が上向きになる予感もない空虚な都議選。その騒々しい期間、私は昨年、山田が出馬した参院選の取材ノートを何度も見直していた。既に、山田の参院選からも一年の日時が過ぎていた。

(初出:『おたぽる』2017年7月14日掲載 http://otapol.jp/2017/07/post-11040.html

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