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クリスマスだから仏教の話をしよう。

 前回前々回はラブフェアリーと二人で楽しくやりましたが、ラブフェアリーはまた愛を求めて旅立ちましたので、今回は吉田一人でやります。でもラブフェアリーは愛のあるところにはどこにでもいる。だからみんなのそばにもいるラブよ。

山城さんからの質問はこちら。

吉田さんは生殖のことどうしますか?こないだ会ったときに色々話したけど、やっぱ生殖やめたほうがいい派?

 生殖ね。わたしは「仏陀の言うこと、マジだなー」と思っている仏教徒なので、仏教の話をします。
 仏教がキリスト教と一番違うのは、「この世ってほんとクソ」という気持ちから始まっていることです。キリスト教のもとになったユダヤ教は「なんで俺たちこんなに住んでるところ追い出されて迫害されるの?」という気持ちから「いや、でもこの世は神が創った『完全な』世界で、俺たちはいつか救われるはず」という気持ちが生まれました。たぶん。
 で、対して仏教は身分の差別もヤバく、人も死にまくりの古代インドで「この世はクソ、苦しみだらけ、苦しみから逃れてえ~」という気持ちから生まれました。そこからめちゃくちゃいろいろに分岐し、その他の土着信仰なんかとも結びついてこんにちの多様性のある仏教になっていくわけですが。
 そんな仏教ではみなさんご存知の四苦八苦ということを言います。人間の代表的な苦しみが4+4で8つあるよってことです。そのうちの最初の四苦というのが生・老・病・死です。生まれること、老い、病気、死及び死に対する不安。うしろ三つはみんなよくわかると思います。老いていろんなことができなくなるの辛い~、病気辛い~、死ぬの怖くて辛い~。じゃあ、生まれることは?生まれたときのこと覚えてないから辛かったかどうかわかんないな……。
 でもよく考えたら、生がなかったら老病死の苦しみはないわけです。生まれてきてよいことってなんかあるのかな。
 生が苦しみだと考えるところは、仏教の「この世はクソ」観がよく出ているなあと思います。そして、わたしは「この世はクソ」ってはっきり信じていて、「神が創ったからこの世は完全なはず」っていう考え方はどうしてもできないのです。

 こんなわたしも、子どもがほしいなと思うことがないわけではありません。たとえばすごく好きな人がいるときとかは、この人との子どもがほしいかもと思ったりします。でもそう思った次の瞬間、わたしの心の中のラブフェアリー的な存在が「は!?自分がクソだと思ってる世界に子どもを産み落とすラブ!?有罪」と叫びます。さらに「なんで好きな人の子どもはほしいラブ?自分と好きな人の遺伝子が混ざった人間がいたら嬉しいラブか?そんな理由で人間を欲しがっていいラブ?そもそも人間が『欲しい』ってなにラブ??」と問い詰めて来るわけです。
 ラブフェアリーとさんざん話し合ったあと、わたしはいつも「いやー子ども産むの、罪深すぎでしょ……」となります。星新一のショートショートに、少子化が進行してめちゃ平和に人類の最後の一人になる、というのがあるのですが、そういう感じで人類が滅亡するのが理想です。

 話は変わりますが、大学に進学したときに、キリスト者がいっぱいいることにびっくりしたんですよ。正確には、キリスト者(の一部?)って、信仰についてのアイデンティティをしっかりもってるんですよね。怪獣用語でいうところのキリスト者を「やる」ぞ感がすごい。そのことにびっくりした。一方、わたしのように日本で世俗の仏教徒を「やる」人って、人生の後半はともかく前半ではあまりいない気がする。仏教式の葬式とか法事とか、あるいは神道式の冠婚葬祭をやってても、「無宗教です」って言っちゃう人は多い。コミュニティとしての檀家制度や氏子制度もかなり崩壊してきている。
 わたしがアイデンティティとしての宗教ということを考え始めたのは高校時代なのですが、その時わたしは「家」の宗教だった浄土真宗にすこぶる疑問をもっていました。「他力本願」とか言っちゃっていいの?戒律無視しちゃっていいの?なんか楽をしすぎじゃない?ていうかこれ仏教なの?って。そして、自分が宗教的なアイデンティティを確立するためには、改宗するなり無宗教になるなりはっきりした方がいいのではないのか?と思ったわけです。
 そこからいろいろあって、結局わたしは浄土真宗で行こうということに何となくおちつくことになります。その過程はとても長くて面白くもないので割愛します。
 浄土真宗のコンセプトは「阿弥陀仏の慈悲で往生しよう」です。往生と言うのはわたしは苦から離れて悟りに達することだとぼんやりとらえています。人間はよわよわであほあほなので、阿弥陀仏という仏がかわいそうに思って救ってくれるということです。
 阿弥陀、すごくない!?つよつよです。阿弥陀のすごいところは、人間を裁いたり選別したりしないことです。人間の努力とかお布施とか戒律の守り具合とか犯罪歴とか、阿弥陀にとってはどうでもいいのです。だって人間はみんなよわよわであほあほだから。阿弥陀というつよつよの存在の前ではちょっとした善悪とか努力なんて誤差に過ぎない。死んだら阿弥陀が悟りの国へスイっと連れて行ってくれることがみんな決定しています。だから生きてるときに、「悟れなかったらどうしよう(´;ω;`)ウッ…」とか「もっと善ポイントを集めないと救われない(;´・ω・)」とか心配する必要がないってことです。
 これってすごくクレバーな考え方だと思うんですよね。表面的には、そんな阿弥陀に甘やかされてたらこの世で悪行を積みまくるやつもいるんじゃないかと心配する人もいるかもしれない。でも実際は全然違うんです。死後は阿弥陀が何とかしてくれるってことは、この世の生をどんな他人にも評価させないでいられる。他者の規範に縛られず、自分にとっての善い生を生きることができる。
 例えば、「親孝行しないと地獄に落ちる」みたいな規範があったとする。そうすると人間は一生懸命親孝行ポイントをためて地獄行きを回避しようとする。でもそうやってなされる「親孝行」ってほんとうに善の行動なんだろうか? あるいは、いろいろな事情で親孝行できない人だってたくさんいる。そういう人はもう親孝行ポイントは貯められないから、地獄に行くしかないと思って生きてる間ずっと不安を抱えないといけないんだろうか? みんな親孝行しながら、「自分はこれだけ親孝行したから地獄行きは回避できたはず、いやまだ足りないかも」と焦り続けるのだろうか?
 でも、阿弥陀の慈悲があると考えると、「親孝行しないと地獄に落ちる」みたいな話はぜんぶウソだということができる。そういった規範を離れて自分自身の人生を生きることができると思うんです。

 これらはわたしがわたしに都合よく理解する浄土真宗なので、教義として言われていることを全部カバーしてもいないし、解釈が違ったり理解が足りなかったりすることもあると思います。浄土真宗やってると言いつつ、わたしはあんまり寺にもいかないし経も読まないし報恩講(なんか浄土真宗で一番大事な年中行事みたいです)も参加しません。でも阿弥陀はそういう人間も救うから。つよつよなので。

 わたしは人と宗教の話をするとき、できるだけ自分の信仰の話とか阿弥陀仏強い話とかをするようにしています。自分が阿弥陀仏好きだからというのもあるんですけど、ともすると宗教の話って伝統的なキリスト教の話になりがちなのが嫌なんです。
 最初に言ったように、宗教の信者としてのアイデンティティのもちようは、日本の伝統的キリスト者と日本の伝統仏教信者ではぜんぜん違います(新宗教などはまた別の面があると思いますがいまはおいておきます)。さらに、西洋の思想や美術を学ぶと、どうしてもそこにあるキリスト教的価値観や、教養としてのキリスト教を理解する必要があります。一方で、教養としての仏教思想に触れる機会はそう多くないとも感じています。もちろん日本にはミッション系の学校以上に仏教系の学校も多くあり、そこでは教養としての仏教教育がきちんと行われているし、アジアの思想を理解するときには絶対に仏教の知識が必要です。とはいえ、わたしが誰かと哲学とか美術とか哲学の話をするときに、キリスト教や一神教の話題にはなっても、仏教の話題になることはあまりないです。
 以前ちょっとイラっとしたことがあるので聞いてください。ある知人に非常に心無いことを言われ、怒ったわたしが長々と反論したところ、その人はなにがしかを理解してくれたのでしょう、「聖トマス」のエピソードを持ち出して謝罪(謝罪だったのか?)してくれました。聖トマスは磔刑にかけられて死んだキリストが復活したことが信じられず、キリストの脇腹の傷に指をぶっさして確認した人です。乱暴かよ。その人は「自分は聖トマスのような行いをしていたと気づいた」という趣旨のことを私に伝えてきたのです。わたしはまあわかってくれて謝罪してくれたならいいわ、聖書っていろんな悪のケーススタディが書いてあって便利だなあと思ったんですが、それとともに「皆さんご存知聖トマス」みたいな感じで来られたことに内心若干イラっとしました。知らんわ。いや聖トマスはさすがに知ってるけど、そういう意味じゃなくて知らんわ。こちとら仏教徒だわ。
 日本ではマイノリティのキリスト者ですが、世界、それもヨーロッパ文化中心の世界では圧倒的マジョリティなんですよね。しかも、日本でキリスト者やってる人たちって、「家」が代々教養とか資本とか持ってることが多くないですか? そういう「強さ」も、数とは別の意味でマジョリティって呼ぶよね。
 だからキリスト者気に食わんというわけではないんですけど、宗教的アイデンティティに迷ったのちに伝統仏教を信仰してる人間もいるよ、仏教っておもしろいしすごくクレバーだよ、ということを、微力ながらも叫んでいきたいなあと思っているわけです。

 さて、クリスマスが近いので仏教の話をし、若干キリスト者にクレームを入れてみました。とはいえわたしは(あなたもですよ!)阿弥陀仏に救われることが決定しており、キリスト者たちも神の愛に包まれているから問題ないでしょう。
 次のエッセイは川野さんが担当です。川野さんに生殖とか仏教のこと聞いても特になにも生まれなさそうなので、自由を課すことにします。自由だ!

この記事は怪獣歌会アドベントカレンダー20日目の記事です。

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