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小説みたいに生きたくない

 斉藤です。今日は小説の話を書く。

 『先週の記事で、斉藤さんは「私は人生に物語を欲していないのかもしれない」と言っていました。
 でも斉藤さんは、小説をよく読みますよね。ドストエフスキーとかブロンテとかヘッセとか。ドストエフスキーなんかはすごく「物語」があると思うけど、斉藤さんはそうした物語をどう読んでいますか?』

 まず、人生に物語を求めることと、小説に物語を求めることは全く別の問題だ。

 人生における物語は人を救うと鳥居さんは言っていたが、同時に、非常に危険な存在でもあると私は思う。物語が人生を乗っ取ろうとしてくるという感覚がある。怖い。だからより正確には、物語をわざと遠ざけている。
 例えば、若いうちに病気に罹ること、ときには死ぬことについて、人が何か美しいもの、かっこいいもののように語るのを、いつも不可解に思ってきた。私はこれまでに何度か病気を経験しているが、病気に甘美なところなど何もない。苦しいだけだ。
 でも、その人たちの言いたかったことも実はわかっていた。彼らは私と違って物語を見ていたのだ。一人の人間の生命があまりにも早くに損なわれるという悲劇を。
 いったん物語に酔ってしまうと、わが身に起こるすべての物事が物語の一部のように思えてくるものだ。破滅は美しい。絶望は美しい。美しい物語のなすがままに任せておくと、人生はめちゃくちゃになりかねない。めちゃくちゃな人生は物語として力があるからだ。物語の力は強く、私一人の人生など簡単に飲み込んでしまえる。
 そんなときにこそ、起床時にかかる場違いに明るいクラシック音楽、昼食に出される麺が全部くっついたそうめん、消灯後に天井に映る点滴ポールのへんてこな影が私を救う。物語を振り切って、できるだけ遠くへ逃げたい。

 小説に物語を求めることは、それとは全く違っている。ラスコーリニコフが罪悪感に苛まれようと、ヒースクリフが復讐に燃えようと、ハンスが挫折を味わおうと、私がのんきに布団に寝転がって本を読んでいることに変わりはない。この差異はいくら強調しても足りないほどだ。
 ドストエフスキーの小説では変わった人たちがロシアの大地でどったんばったんするが、私がどったんばったんするわけではないから、一向に構わない。むしろ愉快なくらいだ。登場人物がいろいろとものを考える。考えたことを何ページも使って全部口に出す。それは変だけれど、真面目だ。真面目さは好きだ。

 と、ここまで書いたが、ドストエフスキーの話をしていても、やっぱりひとつひとつの小さな情景が頭に浮かんできてしまう。外套の下の斧の手触り。さくらんぼのジャムの味。暖炉に燃える小包の火花。どんなに物語性の強い作品であっても、私はどうでもいい細部から目が離せないようだ。

 小説の中でどうでもいいことを書く作家として、私の好きな志賀直哉の話をしたい。代表作の一つ「和解」では、物語のクライマックスである父親との和解の場面で次のような描写がなされる。

「ええ」と自分は首肯いた。それを見ると母は急に起上って来て自分の手を堅く握り〆めて、泣きながら、
「ありがとう。順吉、ありがとう」と云って自分の胸の所で幾度か頭を下げた。自分は仕方がなかったからその頭の上でお辞儀をすると丁度頭を上げた母の束髪へ口をぶつけた。

 自分がお辞儀をすると母親の束髪が口に当たったなどということは、物語の進行上は全くどうでもいいことだ。「和解」という題の本の、まさに和解のシーンで、わざわざ言うようなことか?
 私は嬉しかった。それでこそ本当だと思った。志賀は物語に捕まる前に素早く世界を把握するのが非常に上手い。そこが何より好きだ。

 さて、川野さんからもう一つ。
 『いわゆる現実世界について、「小説で読んだのと違う!」とか、「小説で読んだ通りだ!」と思った経験があったら教えてください。』

 「嫉妬は人を狂わせるそうですね。源氏物語で読んだことがあります。」と言ったことがある。笑われた。

 実際のところ、現実を見て小説と同じだと感じることはそうそうない。というより、もしも小説が現実の似姿だとしたら、身のまわりの人間が小説に書かれているような思いを抱いて生活しているのだとしたら、それは恐ろしいことのように思える。

 ラディゲの「肉体の悪魔」に以下のようなくだりがある。

僕はついに我慢できなくなり、女の花売りを見かけたので、赤い薔薇を一本一本選び、花束を作ってもらった。マルトの喜ぶ顔が見たかったというより、今夜、その薔薇はどうしたの、と訊く両親に、マルトが噓の理由を説明しなければならなくなることが楽しみだったのだ。

 ラディゲの主人公と比べたら、私の感情などというものは快とか不快とか、ごく単純なものだ。皆が皆こんなに複雑な思惑を持っているのだったら困る。
 
 私も人間だけれど、こんなふうに、ときどき人間の感情は難しいと感じることがある。

 先日お会いしたときに、鳥居さんは「人間のふり」について話していた。人間なのに「人間のふり」をするってどういうことだろう?

参考文献:
「和解」志賀直哉 新潮文庫
「肉体の悪魔」ラディゲ 中条省平訳 光文社古典新訳文庫
この記事は怪獣歌会アドベントカレンダー17日目の記事です。

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